【ネタバレ】必然性を極めた『ジョーカー』の脚本術
『ジョーカー』(2019年)
トッド・フィリップス監督が世に放った傑作。
不条理な世界に対する負の感情を溜め込みその全てを怒りとして解放することで悪のカリスマに成り上がっていったこの男は、長らく私史上最高のヴィランだった『ダークナイト』(2008年)のジョーカー(ヒース・レジャー)と肩を並べる存在となりました。
ご存知の方も多いでしょうが、コメディ畑出身のフィリップス監督が、DCコミックスというアメコミ、しかもシリーズ屈指の人気ヴィランの知られざるオリジンを題材にし、自らの作風とは真逆の暗く重苦しいシリアスな作風で描いてみせたこの作品。
公開されるや否や、世界中で高い評価を受け、第92回アカデミー賞最多11部門ノミネート、主演男優賞・作曲賞受賞など世界各地の映画賞レースを席巻し、R指定作品初の世界興行収入10億ドルを達成しました。
映画批評的にも興行的にも大成功を収めたまさにバケモノ級の作品です。
私はこの作品が大好きです。
なぜなら、脚本、映像、音楽、美術などあらゆる部門がアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)という男の心情に徹底的にフォーカスし、悪のカリスマの知られざるオリジンを圧倒的な説得力で描いているからです。
中でも脚本は本当に素晴らしいです。
定期的に観返しているのですが、観るたびに脚本の無駄のなさ・完成度の高さに舌を巻いてしまいます。
この記事では『ジョーカー』の脚本がいかに素晴らしいかを私なりの視点で分析してみたいと思います。
【ネタバレあり】の記事になりますので、まだ鑑賞されていない方はすぐにレンタルしてください。一緒に語りましょう。
目次
1. 素晴らしいと感じる所以
2. 必然性の連続
3. おわりに
1. 素晴らしいと感じる所以
有名な脚本家シド・フィールドはこう語ります。
「アイデアを具現化し、ドラマにするためには、主題(テーマ)が必要である。主題とは、アクション(行動)とキャラクターを意味する。 ここでのアクションとは、どんな行動に関するストーリーであるのか、キャラクターとは、誰に関するストーリーなのか、ということを指す。 どんな脚本も主題(テーマ)を持っている。主題とは、何のストーリーなのかということを規定する。」 ──シド・フィールド著『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』(2009年、上原哲郎発行) |
つまり、誰のどんなストーリーなのかがはっきりしていなければならないということです。
それでいうと『ジョーカー』の主題は明確です。
主題:ゴッサム・シティの貧困層として慎ましく暮らす心優しい男が犯罪者を束ねる悪のカリスマに変貌していく話
本作を観た人であれば誰もが説明できる明確な主題といえます。
一方で、本作を観たことがない人にこの主題を説明すると次のような質問が飛んでくるでしょう。
「何で心優しい人がジョーカーなんかになってしまうの?」
私も同じ立場であればまずこう思います。
そうなんです、この主題、誰のどんなストーリーなのかが明確であるものの、スタートとゴールが一見繋がらない(=説得的に描写するのが難しい)ものになっているんです。
しかし、フィリップス監督はこの難題をもろともせずドラマティックなストーリーをもって説得的に描いてみせました。
「冒頭のアーサーの人物像とジョーカーというキャラクター像との間に存在する大きなギャップ」を埋めて繋いでみせた点、そこに本作の脚本が優れていると感じる所以を見出したということです。
2. 必然性の連続
では、何がそれを可能にしたのか。
私なりの分析ですが、アーサーの行動には常に「必然性」が伴っていたことがその正体ではないかと考えています。
優れた映画には決まって魅力的な主人公が存在します。
何に魅力を感じるかは一様に決まるものではありませんが、主人公に共感できることは主人公を魅力的に映す大きな要因の一つだと思います。
共感できるということは、簡単にいえば「そりゃ◯◯みたいなことがあったら●●にもなるよね」という納得感が得られているということです。
そして、納得できるようなシーンには必ず物語上の「必然性」が存在します。
「いやそうはならんやろ」と思われてしまえば、主人公に共感し寄り添っていた観客の心は瞬く間に離れていき、主人公の魅力は一瞬にして失われてしまいます。
本作では「アーサー=ジョーカー」という等式を成立させるため、様々な箇所でアーサーの「必然性」の伴った行動とそれに至る過程が描かれています。
以下、アーサーが犯した4つの殺人を軸に列挙してみます。
・地下鉄でウェイン証券のエリート商社マン3人を射殺
前半の山場ですが、すでに心優しい人物像から大きく乖離した大胆な行動です。
ここに至るまで、次のような描写があります。
①謂れのない仕事上の失敗、持病、母親の介護など鬱屈とした日々を過ごす
②気休めながらも自分の本音を吐露できる場だったケースワーカーとの面談(いわば社会からの救済の手)が景気悪化による予算削減で打ち切りになる
③母親が長年手紙を送っているのにトーマス・ウェインからは一向に返事がない
→この時点で、アーサーが、自分たちは貧困層に属していて、トーマス・ウェインをはじめとする富裕層は自分たち貧困層に見向きもしない連中だと認識していることが分かります。この富裕層に対する反抗心がこのあとどんどん肥大化していきます。
④同僚ランドルから預かった拳銃を自宅で誤発砲させる
→反応をみるに、アーサーは拳銃を撃った経験がなかったと思われます。しかし、ここで一度その経験をしたことで、この後の地下鉄のシークエンスで感情任せの発砲に至るまでの心理的なハードルが下がっていることが描写されています。(ここ巧いと思いました。)
⑤ランドルから預かった拳銃が原因で仕事をクビになったのに、ランドルは一切かばってくれなかった
⑥帰宅途中の地下鉄で傍若無人に振る舞う3人に絡まれる
→ランドルの非情な態度もあって職を失い、世の中不条理なことだらけだと絶望に打ちひしがれていた矢先、見ず知らずの女性に絡むに飽き足らず、持病の発作に苦しむ自分を蔑み痛めつけてくる3人。その3人は、よれよれの衣装を着た自分と違ってパリッとしたスーツを着たいかにもヒエラルキーの上位にいそうなやつら。そんなやつらから浴びせられる理不尽な罵倒や暴力。いろんな感情が重なって、アーサーの怒りは富裕層に対する反抗の怒りとなって沸き上がり、終にはあの発砲に至ってしまいました。
あえて文字にしてみてもやっぱり「必然性」を伴った行動だなと思わされます。実際「そりゃしかたないよね」と思った方は多いんじゃないでしょうか。
・母親を枕で圧殺
いよいよ冒頭のアーサーからはおよそあり得ない行動です。
これは、悲劇だと思っていた自分の人生は実は喜劇だったという歪んだ解釈に至り、アーサーの倫理観が完全に壊れてしまったことを象徴するシーンです。
ここに至るまで、次のような描写があります。
⑦地下鉄殺人を犯し富裕層に一矢報いたピエロ(アーサー)をヴィジランテとして崇める世論が貧困層を中心に広がる
⑧トーマス・ウェインがピエロ(アーサー)の犯行を真っ向から否定する
→アーサーの中で富裕層に暴力で反抗することが正当化されていくと同時に、富裕層に対する怒りが増幅していきます。
⑨マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)がアーサーのスタンダップショーを揶揄する(その後笑い者にする目的で出演オファーを持ちかけてくる)
→みんなを笑顔にしなさいという母親の願いに応えるべく頑張ってきたアーサーにとって、マレーと『マレー・フランクリン・ショー』はまさに憧れの存在。そんな彼に自分の芸を真っ向から否定されたことで、アーサーの心の中で「こっち側(貧困層)」と「あっち側(富裕層)」の溝がいよいよ大きくなっていきます。
⑩母親から聞かされた一縷の望み(トーマス・ウェインが父親であること)が全くのでたらめだった
⑪トーマス・ウェインから直接的な暴力を受ける
⑫母親は実の親ですらなく、自分の持病は、精神疾患のあった母親から幼少期に受けた虐待が原因で発症したものだった
→自分以外の他者に自分のアイデンティティーを見出そうとしたアーサーでしたが、立て続けに無情な事実を浴び続け、マレー・フランクリンやトーマス・ウェインだけでなく母親すらも自分の不幸な人生を形づくった一人であるという認識に至ります。
もうどうでもよくなったアーサーは『マレー・フランクリン・ショー』で自殺する決意を固め、長年の持病で自分を苦しめてきた母親すらもその手にかけてしまうのです。「自分の人生は悲劇ではなく喜劇だった。それを教えてくれた」という最大限の憎しみと皮肉を込めて。
母親を手にかけるというのは共感ゼロの最低最悪の蛮行ですが、この時のアーサーの置かれた状況を考えると「いやそうはならんやろ」とは言い切れず、説得力を感じざるを得ない展開です。
・同僚ランドルをハサミで刺突し壁に打ち付けて殺害
⑬同僚ランドルと同僚ゲイリーが慰問で訪れたかと思えば、ランドルから拳銃の出どころについて口裏を合わせるように依頼される
→この期に及んで自分の保身のことしか考えないランドルの醜悪たる態度に辟易したアーサー。自ら命を終えることを決心しているのでもう何でもあり。怒りのままにランドルを殺めます。
一方、ゲイリーはアーサーにとって唯一優しく接してくれる同僚だったので、アーサーはゲイリーを生かして帰します。このシーン、この時点のアーサーの心が元の心優しかった頃のそれと地続きにあるという事実(アーサー=ジョーカーの等式を成立させる要素)をさりげなく描写していて、非常に巧いと思いました。
・マレーを銃殺
本作の集大成となる行動です。この行動によって、アーサーは「ジョーカー」として、暴徒化する民衆から悪のカリスマとして崇められるに至ります。
⑭地下鉄殺人を自白し、世の中の不条理を訴えるも、マレーからは全くの理解も得られず、世間に晒しておきながらまるで除け者扱いするように退場を命じてくる
→登場まで自殺しか考えていなかったアーサーでしたが、マレーから「多数派の正論」のようなものを振りかざされてしまいます。アーサーにとってもっともらしい正論めいた説教はもううんざりです。どこまでいっても自分の苦しみを理解してもらえない。ここで「あっち側(富裕層)」に対する怒りは頂点を迎えます。その瞬間、手元の銃口はマレーの額に向けられ、一発の弾丸によってマレーは事切れてしまいます。
その後、アーサーはパトカーで護送されますが、アーサーの「ショー」を目の当たりにした群衆は暴徒化の一途を辿るだけでなく、パトカーから無理やりアーサーを救出すると、格差社会を破壊する救世主であるかのごとくアーサーを崇めます。
これに対し、アーサーは口の中で広がる血で塗り上げたピエロの笑顔でそれに応えるのでした。
いやあ、非常に重厚なフィナーレです。クライマックスシーンは美しさすら覚えます。
ここまで見てくると、いかにアーサーが「必然性」を伴う行動を重ねてジョーカーに変貌していったのかがお分かりいただけるかと思います。
このような「必然性」の連続に我々はアーサーに共感し、殺人を重ねてあのクライマックスを迎えた彼にさえどこか同情心めいたものを抱いてしまったのでしょう。
・ジョーカーの姿について
最後におまけです。本作のジョーカーは、アーサーが自ら名乗り自ら着飾った姿ですが、衣装、メイク、髪色は全て大道芸人時代の姿をモチーフにしていますし、ジョーカーという名前もマレーがアーサーを紹介する際に適当に付けた呼び名が元になっています。
このように、心がジョーカーに変貌していく様にとどまらず、姿がジョーカーに変貌していく様にも「必然性」を持たせているのです。
手放しで称賛するほかありません。
3. おわりに
想定していた5倍くらい長くなってしまいました。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
こんな趣味全開な駄文にお付き合いくださって本当に嬉しいです。
さて、本作『ジョーカー』ですが、既報のとおり、2024年に続編『Joker: Folie à Deux(原題)』の公開が決定しております。
フランス語で「二人狂い」(一方の患者の妄想が他方の患者に伝染し、複数人で同じ妄想を共有する現象)を意味する副題からも察せるように、ついにハーレイ・クインが登場します。
しかも、レディー・ガガが演じます。
しかもしかも、ミュージカルテイストになります。
本作とはまた打って変わったものになりそうですが「必然性」をここまで大事にするフィリップス監督ですから、歌唱シーンすら展開上の「必然性」を込めてくる気がしてなりません。
続編の公開を心待ちにしながら筆を置くことにします。
ではまた次の記事でお会いしましょう。
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投稿を表示想定していた5倍長く(笑)
いやー今回も読み応えのあるコラム!岡さんのコラムを読んでもう一度ジョーカーを観てみたくなりました!
Folie à Deux、心理学科卒なので学生の時に覚えて印象に残っていた言葉でもあり、ハーレークインが登場するとのことでさらにゾクゾクします。楽しみ!(岡さんのコラムも笑)
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