橋口亮輔『お母さんが一緒』
三姉妹のお母さんは毒親
橋口亮輔監督は寡作な作家。新作『お母さんが一緒』は、前作『恋人たち』(2015年)から9年ぶりの作品です。満を持して公開された『お母さんが一緒』は橋口作品としては珍しく、原作があります。橋口作品の魅力は一つは、彼のパーソナルな部分が滲み出ているオリジナル脚本にあると思っていたので、『お母さんが一緒』の原作が舞台作品で、しかも元々ドラマとして放映したものを映画用に再編集したと知った時は若干の不安がありました。
ところが観たら、まあ面白い。そうです、私は手の平を返しました。橋口監督、ごめんなさい。『お母さんが一緒』は、過去作のどの作品とも似ていないけど、「橋口作品」と思える作品に仕上がっていました。そう思えたのは、橋口作品の魅力の一つである、人間性をむき出しにした登場人物がスクリーンの中で暴れていたからです。その上で、橋口監督のパーソナルな部分が後退したことで、とても軽やかになり、橋口作品の中で最も開かれた作品になったような気がします。
物語の舞台は温泉旅館で、ほぼワンシチュエーションの会話劇です。三姉妹が親孝行のつもりでお母さんを連れて温泉旅館に行き、たどり着いた旅館で三姉妹が喧嘩をする――一言で言うとそれだけの話です。そこに三女(古川琴音)の彼氏(青山フォール勝ち)が現れ、カオス状態に陥るというコメディです。なお、『お母さんが一緒』というタイトルなのに、お母さんの姿は一瞬しか映りません。この作りは、桐島が一切出てこない、吉田大八監督の『桐島、部活やめるってよ』(2012年)と似ています。
『お母さんが一緒』において、お母さんの姿は見えないのに、お母さんの存在感は絶大です。それは三姉妹の会話からお母さんの人物像がありありと目に浮かぶからです。お母さんはどんな人か――端的に言えば、毒親です。三姉妹それぞれの言動にお母さんの呪いを見てとることができます。その影響が最も強いのが長女(江口のりこ)です。続いて次女(内田慈)、三女と呪いは徐々に薄まります。呪いにより、常に彼女たちの中にお母さんの影が見えます。
そう考えると、この『お母さんが一緒』というタイトルが怖く感じませんか? 恐らくお母さんが亡くなっても、三姉妹は「お母さんが一緒」なのでしょう。私は同作を観ながら、邪悪な毒親が登場するアリ・アスター監督の『ヘレディタリー/継承』を思い浮かべました。
『ハッシュ!』が示した家族観から後退した家族の形
彼女たちにかけられた呪いの一つを言語化すると、「女性は結婚して出産するのが幸せ。その姿を親に見せるのが親孝行だ」といったところでしょうか。同作はコメディなので、三姉妹の罵り合いは、正直面白いです。私も笑いました。しかし、ふと我に返るとゾッとするのです。「家族ってこれでいいの?」と。同作は、「家族って面倒くさいけど良いよね」とハートフルな家族ドラマとして見ることもできます。一方で三姉妹を通して、日本人の家族観に、とっくの昔に廃止された家父長制が根深く残っているのが分かります。
私がそのように見ることができたのは、同作が橋口作品だからです。橋口監督は2002年に、新しい家族の形の可能性を感じさせる『ハッシュ!』を公開しています。同作の主要な登場人物はゲイのカップル(田辺誠一&高橋和也)と、結婚はしたくないけど子供は欲しい女性(片岡礼子)の3人です。彼女の決断により示された3人の未来の可能性はとても美しいです。それはゲイカップルの2人が想像もしなかった――あるいは想像するこができなかった――未来です。同作は、「家族の形は一つじゃない。多様であっていいはずだ」という強いメッセージと共に、多くの日本人の家族観に未だしつこくこびりつく家父長制の価値観を打ち砕こうとしているように思えます。
ところが『ハッシュ!』から22年後の『お母さんが一緒』では、旧態依然の家族の形が描かれています。この家族は、『ハッシュ!』が示した視点から見ると、明らかに窮屈です。『お母さんが一緒』を観ると、『ハッシュ!』で描いた明るい未来が、それから22年後の現在、実現しなかったことが分かります。日本では、同性婚はおろか選択的夫婦別姓制度すら導入されていないのが現実です。そうした中、結婚して名字を変えるのはほとんんどが女性で全体の95%と言われています。どちらを選んでもいいはずなのに、女性の名字を選ぶ夫婦は5%しかいないのです。『お母さんが一緒』の姿を見せないお母さんが三姉妹の中に常に存在しているように、家父長制の亡霊はまだまだ消えそうにありません。