帰らざる夜明け
【フランスの田舎の風景の中で起きたこと】
(1971年・仏・89分・カラー)
監督:ピエール・グラニエ=ドフェール
原作:ジョルジュ・シムノン 『LA VEUVE COUDERC (未亡人クーデルク)』
後味は決して良くないけれど、切なさに甘い余韻がある。この余韻こそ、フランス映画の命…みたいな?
フランスの片田舎の道を歩いているよそ者の若い男と、バスから降りてきた中年女性が映し出される。彼女は未亡人のクーデルク(シモーヌ・シニョレ)で、バスの荷台から町で買って来た鶏卵用の孵化器を下ろそうとしていた。その様子を見て手を貸したのが先ほどの若い男(アラン・ドロン)だった。
クーデルクは亡くなった夫の老いた父親と二人暮らしだった。畑仕事や力仕事に男手が欲しかった彼女は、ジャンと名乗るその男を家に置くことにした。
彼女の家は船が通る運河を渡ったところにあるが、その河には跳ね橋があって、船が通る時には手動で橋を上げ、人が渡る時には下げる仕組みだった。跳ね橋の上げ下げを受け持っているのが、クーデルクの亡くなった夫の妹夫婦だった。
クーデルクは14歳の時に奉公に来て、夫と舅の二人に暴行されたのだったが、妹夫婦からは売女扱いされ犬猿の仲だった。
妹夫婦には16歳になるフェリシー(オクタヴィア・ピッコロ)という娘がいて、フェリシーは父親の分からない子供を産んで、いつもその子を抱いて運河やクーデルクの家の周りを歩きまわっていた。時には、ジャンの部屋に窓から忍び込んで、彼の持ち物を調べてもいた。
フランスの長閑な田園風景は美しいけれど、其処で暮らす人々には、とても閉鎖的で息苦しいものを感じてしまう。
多分、若い男を雇って同じ家の中に住まわせ、ジャンと連れ立って町に買い物に出かけるクーデルクの姿は、格好の噂の種になっただろう。運河にある洗濯場で、クーデルクが男物のシャツを洗濯している時、隣で洗濯している主婦たちががコソコソと目くばせしたり、口の端だけで笑っているのが分かった。
舅は耳が遠いと言っていたけれど、ジャンが自分は殺人犯だと告白しているのは聞こえていたようだ。未だに色気を出して、クーデルクにちょっかいを出してくる舅など放っておけばよいのにと思うけれど、夫の遺した家や土地をお金に換えようと狙っている妹夫婦に対抗するには仕方がないようだ。
ジャンは最初は口髭があったけれど、髭を剃った後は年齢が2、3歳は若くなったように感じた。(この時のアラン・ドロンは36歳。シモーヌ・シニョレは50歳。)
ある夜、クーデルクはジャンとベッドを共にした。その後、町に行ったクーデルクが新しいネグリジェを買って、ジャンを待つのがいじらしいというか、切ないというか…その頃、ジャンはフェリシーと一緒だったわけで…
翌朝、帰宅したジャンに、フェリシーの何処がよいのかと聞くと、若さだと答えるジャン。年齢のことを言われたら、どう仕様もない。「老いた私を抱いておいて、今さら否定するなんて」とクーデルクの無念さが伝わってくる。
妹たちの密告によって、ジャンの元に警察がやって来る。ジャン一人を捕まえるためにあの警察官たちの包囲は大袈裟にも思えたが、静かだった画面が一気に緊張を帯びていく。
草原を走って逃げるジャン。しかし、彼の姿は丸見えだ。警官たちは容赦なく発砲してくる。走って、走って、彼が逃げ込んだのは、先ほどのクーデルクの家だった。
農機具や藁、草原を吹く風、古い農家の建物、運河と跳ね橋。
田園風景には、まったく似つかわしくない銃声が響き、騎馬隊警察の蹄の音も聞こえる。クーデルクの家にもジャンを狙って発砲が続く。
この家に留まる覚悟をしたクーデルクの危険を思ってか、再び家を飛び出して行くジャン。
すべてが終わった後で、画面にはテロップが流れる。過去の彼が犯した罪(パーティーで高官を射殺した)の動機を裁判長に問われて、ジャンは「ウンザリしたから」と答えたと・・・
ああ、小説だったか映画だったか忘れたけれど、殺人の理由を「太陽のせいだ」と言った人がいたっけ…と、とても虚しい気持ちになった。
劇中、クーデルクとジャンの会話シーンは短いけれど、二人の思いは台詞が無くても伝わってきた。
アラン・ドロンの真っすぐな視線とバカ正直なセリフ。やはりシモーヌ・シニョレの、目だけで心情を訴えかけてくる演技の深みは流石だと思った。
若いオクタヴィア・ピッコロと対照させることで、残酷にもシモーヌ・シニョレの衰えが際立ってしまったけれど、最後の恋に賭けたクーデルクの気持ちの表現は見事だと思う。
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投稿を表示DISCASレビュー広場で拝読しましたが、こちらにも、ちゃんとアップされていますね。
オープニングに流れるフィリップ・サルドのメロディー、また聴いてみたくなります。