Joker: Folie à Deux -ネタバレ&飛躍考察-
こんにちは!
そぜシネマです。
自分の人生を変えた【映画】の魅力を
『旅』『ワイン』『トリビア』のかけ合わせで紹介していきます。
観てきました。
ジョーカー2:フォリ・ア・ドゥー
体感では日本公開までにこれほどまでにザワついて、各国で賛否が分かれた作品は今までに無かったと思います。まさに問題作。
直近で似たような事象では『オッペンハイマー』のそれを覚えていますが、これは日本特有での背景を抱えた上での賛否両論で、鑑賞後の世間は『賛』寄りに。一方、本作は世界各国で同様の”動揺”が同時多発しており、いずれも『否』寄りの評判が増えている様相。
なぜ『ジョーカー2:フォリ・ア・トゥー』がこれほどまでに世間が戸惑い、評価が真っ二つに分かれているのか。前作『ジョーカー1』との比較を通じて考察していきたい。
尚、今回、描きたい部分がどうしても本質に触れてしまうので今回は【ネタバレあり】とさせていただいています。なので未見の方は事前には観ずにまずは自分の目で体感した後読みに来ていただけたら幸いです。
【序章:前回Jokerと今回のポスターの比較】
個人的に好きなポスター考察。事前情報無しでサラの状態でポスターを眺め、製作者側の意図を読み取ります。作品の看板となる一番大事なビジュアルツール。これだけでも色々読み取れる部分がありますね。
メインビジュアルとなるジョーカー1・2の半顔アップ画面を並べてみた。
左が前作の『ジョーカー』ビジュアル。
もう一人の人格ジョーカーが前面に出てきていて、自信に満ちた(悪の野望があふれ出した)アーサーの目線に比べて本作のアーサーはどこか魂の抜けた能面のような表情でどこか視線もうつろであるが、代わりに隣に追加されたハーレイクイン(リー)の視線が前作のアーサーそのもの。
この部分だけでも【今回の真の主役は誰なのか】と、今後の行く末がある程度予想できる。
(従来のジョーカーストーリーではジョーカーとハーレイクインが恋に落ちるが最後はハーレイが彼を捨てて立ち去るというものだが、似たような結末を迎える予感はこのビジュアルから感じさせた)
そんな二つのビジュアルポスターを眺め、色々な感情を抱きつつレビュー本編へ移りたい。
ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ
Joker: Folie à Deux
製作年 :2024年
製作国 :アメリカ
上映時間:138分
監督 :トッド・フィリップス
キャスト:ホアキン・フェニックス レディー・ガガ
あらすじ
理不尽な世の中の代弁者として、時代の寵児となったジョーカー。今は5人を殺害し勾留中のアーサー・フレックに戻り、音楽療法のプログラムを受けていた彼は、そこで謎めいた女性リーと出会い、アーサーの中で抑え込まれていた狂気が再び暴走を始める。狂乱が世界へ伝播していく。孤独で心優しかった男アーサーの暴走の行方とは?彼は悪のカリスマなのか、ただの人間なのか。
【目次】
1.ジョーカー1が残した功績
2.ジョーカー2:フォリ・ア・ドゥは世紀の傑作なのか、駄作なのか。
3.今後の行く末について(ジョーカーの今後)
1.ジョーカー1が残した功績
ジョーカーを振り返る前にまずは前作『ジョーカー』※以後ジョーカー1のおさらいと残した功績についてデータで簡単に振り返っておく。
ジョーカー1は2019年10月4日に公開され、R指定作品として、全世界での興行成績において、10億ドルを超え1位を記録。同年のヴェネツィア国際映画祭では金獅子賞を受賞、アカデミー賞では最多11部門にノミネートされ、主演男優賞(ホアキン・フェニックス)と作曲賞(ヒドゥル・グドナドッティル)を受賞した。
このようにアメコミ映画『バットマン』のヴィランを描いたスピンオフ的作品でありながら、従来に無いストーリーと芸術性を高く評価され、アメコミ映画に留まらない名作として名を残している。
前作『ジョーカー1』の私が感じ取ったメッセージは下記の三つ。
・本心では無い笑いの残酷さ
・理想と現実と妄想の狭間
・悲劇か喜劇か
本作のジョーカーはアーサー・フレックという一人の男が自らなりたかったわけではなく、過酷な境遇と現実逃避が彼のもう一人の人格を創り上げた。
そして暴徒の最中でジョーカーが誕生したラストシーンの後で一転真っ白な病棟に切り替わる衝撃のシーン。あれを『今まで起こったことはすべてジョーク(彼の妄想)だった』とするのか
それともその先のラストのレトロな”The End”タイトルは”アーサーの終わりの始まり”を表すのか。
当時の私は前者と解釈した(結果的に『ジョーカー2』を観ると後者が正解だとわかるのだが)。
そんな興行的にも大成功した前作の続編、いやアンサームービーとして『ジョーカー2:フォリ・ア・ドゥ』は否応なしに注目され、どのようにアーサージョーカーがバットマンのスーパーディランにまで成り上がっていくかを世間から期待されて5年。そして本編をむかえる。
2.ジョーカー2:フォリ・ア・ドゥは世紀の傑作なのか、駄作なのか。
率直にいかがだったろうか。
結論からいうと、私はアリだった。
むしろ前作同様、トッド・フィリップス監督らしい練りに練られたストーリー構成とそれをジョークかのように変化球ながら最大限に表現する演出が存分に発揮された傑作という評価をしたい。
冒頭のアニメーションではアーサーともう1人の人格(ジョーカー)の関係をコミカルなブラックユーモアで描いており、前作のダイジェストと共に明確に2重人格を匂わせる内容だった(アーサーは自らは望んでおらずジョーカーの罪を全て着せられる役柄)。
その後はリアルに戻り、アーカム刑務所での一目置かれながらも周りから良い様に利用されているアーサーの刑務所生活、そこで出会ったリーとの大恋愛。その後裁判編に進み、衝撃のラストへの流れも素晴らしかった。
同時に世間の評価が真っ二つに分かれていた意味が分かった。
あくまで個人的な見解だが、評価が分かれている一番の理由は
『観客が勝手に期待し、築き上げたストーリー仮説に対してのギャップ』
に尽きる。
具体的には
『前作で覚醒したJokerがハーレイクインと出会い、どのようにバットマンの宿敵として成り上がっていくか』と言う予定調和の期待をこれでもかという程打ち砕いた点とその表現に“ミュージカル形式”を用いた二点だと思う。
確かにジョーカーはアーサーが創り出したものである。ただ、アーサーは裁判で唯一の友達と思っていたゲイリーから実は恐怖の対象とされていたこと、法廷でアーサーが看守を軽視した発言をしたことで信者の囚人が殺され、自分も性的暴行を受けたことを受けて、自分が創り出した理想のジョーカーにはなれないと悟り、ジョーカーを放棄してしまった。
この大きな大きな分岐点によりストーリは大きく動く。
最愛でリスペクトされていたリーから愛想をつかされ、アーサーの元を去っていく。
なぜなら彼女が愛していたのはアーサーではなくジョーカーだったからだ。
そしてラストはもう一人の若い囚人に過去に自分の持ちネタだった『ノック、ノック』を持ち出され、最後に『報いを受けろ』とあっけなく刺殺されてしまう。アーサージョーカーの最後だ。
この救いようが無いアーサー・フリップの結末は誰が予想しただろうか。
前作で直接対面し、恨みを募らせた若きバットマン(ブルース・ウェイン)との直接対決は実現せず、誰もが期待したスーパーヴィランジョーカーの誕生は本作では誕生しなかった。
この理想のジョーカー像と目の前のアーサーとのギャップを作品自体への批判に置き換えてしまっているのが落胆の声が大きい理由だろうか。
次にストーリーの構成がミュージカル調だった点。
これは少々私も面食らったが、聖歌隊のメンバーだったリーがアーサーに近づき、魅了していく部分をミュージカルで表現する手法は個人的には分かり易かった(現にこの手法は二人との対話の時かお互いを思う時にしか使われていない。裁判所のシーンも内容はリーの事について歌っている)。
更に言えばリーが歌を使って対話する時は相手がアーサーではなく、ジョーカーの人格である時のみである事は最後の会談での別れのシーンで腑に落ちた(現にジョーカーを捨てたアーサーはリーの歌声を聞いても呼応せず、もう歌は聞きたくないと拒否していた)。
本作がミュージカル映画の様だという印象を受けるのはつまり本作が『ジョーカーとリーとの物語』であることの裏返しということに他ならない。そう、本作は二人の物語であり、2人にとってのエンターテイメントなのだ。
上記2点が観客が期待し、見たかったストーリー・演出に対してのギャップを感じさせ、大きく賛否両論が生まれた背景と言える。
ではここからはもっと本作について切り込みたい。
『では誰がジョーカーなのか』
その前に今まで論じた考察をまとめると以下になる。
アーサーはジョーカーを創った。
アーサーはジョーカーにはなれなかった。
ただジョーカー像は存続しており感染・増殖(Folie à Deux*)していく(個人的には最後のアーサーを刺した信者囚人が次なるジョーカーとなる可能性が高い。絶命したアーサーの背景で自分のナイフで口を大きく切り裂いている様に見える)。
*ひとりの妄想がもうひとりに感染し2人ないし複数人で妄想を共有することがある感応精神病の名
そしてもう二人本作では重要なダークヴィランが生まれていたのも注目したい。
一人はトゥーフェイス。あの法廷でアーサーの精神分裂を断固拒否し彼の妄想と糾弾していたあの検事補ハービー・デントだ。
ジョーカー信望者によるテロ爆破で彼も巻き込まれ、顔半分を負傷していたように見えた。彼が今後バットマンの宿敵として登場する“トゥーフェイス”の誕生を垣間見た。従来の硫酸で顔が解けた説をことごとく破壊するトッドフィリップスらしい演出である。
そしてもう一人はご存じハーレイクイン。
本作ではリー(ハーリーン・クインゼル)として登場する。彼女がアーサーの中のジョーカーを巧みに引き出し一時は『二人で山をつくる』と悪の王国を築き上げるのを夢見ていた。
そして最後はジョーカーを放棄したアーサーに見切りをつけ、彼の元を離れたが、彼女の野望は崩れない。また新たなジョーカーの意志を継ぐものを探して二人で悪の限りを尽くすスーパーヴィランとして帰ってくるに違いない。
そして忘れてはいけないのが、本作には出てこなかったが前作『ジョーカー1』で登場したブルースウェイン少年との行く末も気になる。ご存じブルース・ウェインはのちにバットマンとなる男だ。
トゥーフェイス
ハーレイクイン
バットマン
そしてジョーカーの意志を受け継ぐ未来のジョーカー
これで役者は揃った。
私の心からの願望となるがトッドフィリップス監督は実は『ジョーカー2』はジョーカーが生まれるまでの前段章であり、次作『ジョーカー3』までを構想。次作は上記ヴィランおよびバットマンを再結集させ、我々が知っている話の新章へ持っていくことを想定しているのではないだろうか(そうであってほしい。だって超観たいし)。
もう一つ個人的に気に入っている別の切り口について紹介したい。
改めてJokerの意味を調べた。
1.トランプで、道化師の絵などが描いてある番外の札。 最高の切り札。
2.ジョークや冗談をいつも言う人。 道化者。
我々は今まで1の意味で捕らえており、Jokerを『特別扱いされる畏敬の対象』として崇めて来た。
ただ2の意味の方はあまり気にしてこなかったのではないか。
確かにジョーカー1,2を通じてアーサーはよくジョークを言う人である事は随所で描かれている
彼は従来からジョーカーだったのだ。
しかしもう一つのJokerはジョークを言う人ではなく、この映画自体をジョークととらえる監督本人による視点としてのジョーカーである。
前作『ジョーカー1』ではラストのJokerが誕生したあのシーンの後で真っ白な病棟に切り替わる衝撃のシーン。あれを『今まで起こったことはすべてジョーク(妄想)だった』と示唆する幕切れをしたかと思わせておいて、本作『ジョーカー2』ではあの公開生殺人事件は事実とされ、5人殺しの罪でアーカム刑務所へ収監されていた。
これもトッド・フィリップス監督の一種のジョークを感じさせる。
そして本作では従来の表現方法も一気に変え、観客を戸惑わせるばかりかストーリーやラストの幕切れも観客を全力で振り回し、良くも悪くも話題作とすることに成功している(現時点では興行収入は芳しくないが少なくとも前作以上の話題作にはなっている。これは彼の壮大なるジョークではないだろうか)。
5年越しの2作品を使って世間にジョークを突き付けるトッドフィリップス監督。
私は改めてスタンディングオベーションばりの敬意を贈りたい。
そして何とか本作の興収増につながり、続編で誰もが待ち望んでいたダークヒーローVSスーパーヴィラン達との対決をトッド節で観たいと切に願いながら本稿を締めたい。
ここまで長文を読んでいただきありがとうございました。