シン・新幹線大爆破!前編
75年東映作品・リバイバル上映!
ってことで観に行きました。
もう何度も見ております。
うちに録画DVDが3枚もありました。

高倉健・追悼として
逝去されたとき、某放送局に推薦しました。
「面白いけど無理です、提供にJR東海が…」
その局は「幸福の黄色いハンカチ」を放送しました。無難すぎ!
THE LONG ROAD TO SEEING SEE THE FILMー新幹線大爆破ー
この作品を見るまで多くのみちのりがありました・・
当時ハリウッド作品はパニック映画が潮流でした。
そこで東映のお家芸、パクリ!に挑み、
日本的なパニック映画の企画に着手します。
前々年に東宝が「日本沈没」をヒットさせており、
これにも刺激されたかと思います。
道頓堀に「新幹線大爆破」!
道頓堀には映画館や演芸場、お食事処に、古本屋さんなど、
エンタメゾーンとして、にぎわいがありました。
名門松竹座もこの頃は映画館、東映の映画館もありました。
いまはたこ焼き屋とドラッグストアにお土産屋など、
外国人による賑わいはあるものの、情緒のないエリアになってしまいました。
多くの商店主たちは、商売をたたみ軒貸しにして、
家賃収入に転じていきました。
大阪がシュリンクしていることを感じます。
のちにこの界隈で「ブラックレイン」のロケが行われました。
この道頓堀の角地には巨大なビルボードがあって、
映画の看板が設置されていました。
ここで「新幹線大爆破」のビジュアルを見たのです。
このストレートなタイトルに惹かれ、絶対観に行こう!

爆破せず、不発に…
公開されましたが、とある事情で観ることはできませんでした※1
話題になることもなく、はやばやよと公開終了…
フランスで大ヒットした日本映画!
「SUPER EXPRESS 109」というタイトルで
日本映画がフランスで大ヒットしたと、テレビでついに取り上げられました。
そして、フランス語版の凱旋上映されました。
これも短期間で終了…※2

これを期に日本の映画評論家たちは、ようやくこの映画を見たのでした。※3
そこで巻き起こる絶賛の声!
日本映画にもこんなサスペンス映画ができたのか!
しかもオリジナル作品で!
キネ旬ベストテンに入選し、読者選出では第一位です。
朝日シネマベストテでも一位!※4
この事を浜村淳はかなり異を唱えていました※5
テレビ洋画劇場枠で放送決定!
ついに「月曜ロードショー」の10月枠※6
で放送されることとなりました。
そしてその日、テレビ欄を見ると違う映画になっていたのです…※7
もう見ることできないかと、と思ってたところ、
三越劇場※8で高倉健特集があったのでした。
「幸せの黄色いハンカチ」とこの「新幹線大爆破」の2本立て!
ついに見たのです!
公開からおよそ3年後の1978年、ついに実現!
そして、高倉健を見たのはこれが初めてなのでした!※9
テレビでも放映されることとなりました。
あの「月曜ロードショー」で!
劇場で観たの2時間30分超えのオリジナル版。
テレビ放映は2時間枠で海外公開版に近いものだと思います。
スタッフ、キャストたちの熱い思いは観客に届かぬ…
当時のキネ旬では2回にわたり特集が組まれていました。…※10
東映は新機軸を開拓すべく、巨費を投下した作品。
シナリオの出来から、高倉健をはじめ並々ならぬ意気込みが
語られ、「タワーリング・インフェルノ」より面白い映画が出来た!
東京ではそれなりの動員だったそうなのですが、
地方は不入り、関西もダメで予定より短く打ち切りとなりました。
その穴埋めで急遽製作された「トラック野郎 ご意見無用」…11はスマッシュヒット!
併映「帰って来た女必殺拳」もあり、東映の夏を救いました。
そして近くにあった東映の映画館はこの上映後、閉館となりました。…※12
≪つづく≫
※1
小学6年のとき、道頓堀に住んでいる友達と行こうと言ってたのだが、
なかなか返事がない。それでもう、ひとりで行こうとしたら、
併映が「仁義の墓場」(深作欣二監督・渡哲也主演)となった。
さすがに小学生がやくざ映画を見るわかにはいかない、とあきらめた。
当初の併映は「ずうとるびい」というアイドルグループの短編映画。
メンバーのひとりは「笑点」で座布団を運んでいる。
※2
公開はサンケイホールでの一週間くらいの臨時上映。
一部、東映の映画館でも公開された。
その時は「点と線」という映画と併映だった。
その劇場まで行ったのだが、見るのをやめた…
※3
作品は公開3日前に完成のため、試写会はほぼ行われなかった。
またTVスポットCMは新幹線が走ってきて爆発をイメージさせる映像で
本編が使用されていなかった。
※4
朝日シネマベストテンは大阪朝日新聞が主催だったと思う。
審査員も関西の評論家や映画にまつわるひと。
浜村淳も審査員のひとりだったかもしれない。
表彰発表後はベストテン作品が公開される。
朝日新聞を購読していれば、招待券を入手できたと思われる。
毎日新聞も毎日映画コンクールを開催していた。
上映会は日活ロマンポルノ作品がカップリングされており、
二十歳未満でも堂々と入場できた。
観たのは「もっとしたたかに、もっとしなやかに」(監督・藤田敏八)
裸はあったが、からみはなく真面目な映画だった。
因みにこの作品も,ベストテン入選作品である。
※5
浜村淳は自身のラジオ番組でラスト、高倉健の面が割れるまでを30分以上にわたり克明に紹介した。
今見て来たかのようなしゃべりは、YouTuberより鮮明に作品を感じさせる。
映画館で観るしかない時代に語る話術は名人芸であった。
ただネタバレが多いという批判もあった。
本作を評価するものの、ベストワンにするのはいかがなものか、と苦言を呈していた。
聞くところでは、試写会ではほとんど寝ていたらしい…
※6,7
「月曜ロードショー」枠で1977年10月10日に放送予定だったが、「ひまわり」に差替えられていた。
半年後、1978年4月24日にようやく放送された。
解説者の荻昌弘は、放送延期の理由をハイジャック事件があったためと事情を説明。
この4月は「007サンダーボール作戦」、「007は二度死ぬ」、「わらの犬」、「M★A★S★H」とラインナップが充実していた。
※8
大阪にかつて三越百貨店があった。
北浜という証券取引所のある証券街に。
店内に三越劇場があって、
わたしの知る頃は映画館として、
洋画邦画まじえての二本立を上映していた。
その二本立てもテーマ性をもっていった。
のちにミニシアター的存になった。
※9
家の近くに東映の映画館があり、東映作品のポスターはよく目にしていた。
高倉健の名前はそれで知るものの、やくざ映画しか出ていないので見ることがなかった。
やくざ映画のビジュアルはこどもにも刺激的かつ、惹く付けるものがあった。
「山口組三代目襲名」や「県警対組織暴力」のポスターは魅力的であった。
※10
キネ旬5月号にて、その座談会記事が再掲載されている。
※11
菅原文太が当初、爆弾犯で予定されていたが本人が固辞。
菅原文太は全日本トラック協会の年始挨拶を務めてきたらしい。
C・イーストウッドの「ダーティファイター」も類似した企画。
アイデアはイーストウッドによるもので、製作サイドは難色を示したが大ヒットしている。
※12
この映画館は東映の封切作品を一週間かけたあと、東宝、松竹、(大映)、日活と一週間単位で
プログラムが変更していった。
「東映まんがまつり」、「東宝チャンピオンまつり」に限って二週間、上映していた。
一週間たっても「トラック野郎」のポスターが貼っているので、
映画館に行ってみたら、しまっていた。
ポスターやスチール写真はそのまま、そしてパチンコ店になっていた…