Discover us

特集

似顔絵で綴る名作映画劇場『昭和の太陽を燦々と浴びたいあなたへ』

昭和の太陽を燦々と浴びたいあなたへ

美しい夕陽を遮る高層マンションも、宝石のような星との語らいを邪魔する無粋なネオンもなかったあの頃。映画館に足を運ぶというのはひとつのイベントでした。そこではキラ星のようなスタアたちが、眩いばかりのオーラで私たちの心を照らしてくれたのです。

そんな時代を彩った昭和のスタアたちの作品をご紹介します。


『嵐を呼ぶ男』(1957)

イラスト 志賀コージ

“昭和の太陽”石原裕次郎がヤンチャなドラマーに扮した、これぞ日活青春活劇‼

“裕次郎に芝居はいらぬ、ただ居るだけで良い”などと言われることもありましたが、確かに計算づくの小芝居などでは到底追いつけない圧倒的な存在感で新しい風を吹かせた男です。

「こんの野郎、かかって来い!」のあの有名なドラム合戦のシーンは、観ているこちらがチョット気恥ずかしくなりますが、後年のTV番組で当のご本人も、あのセリフにはかなり抵抗があったと告白しています(やっぱり!)。それでも公開当時は大いに盛り上がったのでしょうね。

裕次郎は、映画界も世間のモラルをもちゃぶ台返しした時代の寵児です。裕次郎という太陽が燦々と照らした道を、その後の日本は、高度成長へと邁進するのでした。それに反比例するように、映画各社が昭和28年(1953)に結んだ、いわゆる「五社協定」により、“スタアを貸さない、借りない、引き抜かない”という掟が生まれました。これによって、日本映画は、同じような脚本で、同じような俳優で、同じような作品を作り続け、やがて斜陽の坂を下って行きました。この『嵐を呼ぶ男』から6年後の昭和38年(1963)、裕次郎は日活を飛び出し、石原プロモーションという自らの船で、大海原へと乗り出すのでした。

嵐を呼ぶ男の航海は、その名の通りに激烈な向かい風に立つ嵐の人生でした。


 

『エレキの若大将』(1965)

イラスト 志賀コージ

日本に“エレキブーム”が巻き起こったのが1960年あたりから。その年のベンチャーズの結成から、5年後の来日公演に至るまでがそのピークとも言われます。当時は“不良の温床”として扱われ、多くの学校では学生に対して“エレキ禁止令”なるものが出る始末。いまでは笑い話です。そんな中、我らが若大将もノリノリでテケテケしたのがこの映画でした。『若大将』シリーズの第6弾です。加山雄三の数ある名曲の中でも今なお人気の『夜空の星』。“エレキの神様”こと寺内タケシの名演奏とともに劇中歌として唄われていて、60年近く経った現在でもその魅力は色あせることはありません。まだまだシンガーソングライターなるものが珍しい時代に、加山雄三は自ら作曲して唄い、大ヒットさせてしまうのです。歌はあくまでも趣味的なもの、と公言していましたが、この人にかかると趣味的なものさえもとんでもないレベルに達してしまうのです。学生時代にはスキーで国体に出場し、船を設計してあの光進丸で大海原を駆け、油絵を描けば個展や画集が人気を博し、玄人はだしの料理を振る舞い、そして英語はペラペラ。こうなるとどこか嫌味に聞こえてしまうものですが、その人柄と人間的魅力がそんな愚かな発想をへし折ってしまいます。だからこそ、今なお世代を超えた多くのミュージシャンからトリビュートされ続けるのでしょうね。


 

『大学の若大将』(1961)

イラスト 志賀コージ

1970年代にはあの深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズでの、大物にはなれそうもない小物のヤクザ役を、1980年代には国民的人気テレビドラマ『北の国から』で、主人公の黒板五郎を演じ、その朴訥とした癖の強い口調は“モノマネ”の定番となりました。

田中邦衛と言えば、このドラマの不器用きわまりないお父さんをイメージする方が圧倒的に多いでしょうが、これが“昭和のオヤジ”たちとなれば、1960年代の東宝のヒット作『若大将』シリーズにおける“青大将”こと石山新次郎役を真っ先に思い浮かべます。

加山雄三演じる“若大将”田沼雄一の大学の同期にして常に彼に張り合い、強烈なコンプレックスから敵視するいけ好かない男を演じて、このシリーズの人気の一翼を担っていたのです。この『大学の若大将』は、その記念すべきシリーズ第一弾でした。加山雄三と共に、田中邦衛もここから人気者になっていくのです。この時代よりすでに、あの口を尖らせながらの、チョット怪しくて不思議な身のこなしが印象的でした。加山雄三の爽快さと、田中邦衛の狡猾さの対比がシリーズを通しての看板でもありました。実に魅力に溢れた俳優さんでしたね。


 

『日本一のホラ吹き男』(1964)

イラスト 志賀コージ

日本の高度経済成長期を象徴するコメディアンは、植木等をおいて他にいないと思います。

口から出まかせの大風呂敷を広げまくり、スイスイスーダララッタと難題をもすり抜け、やがて誰もが唖然とする立身出世をしてしまう“スーパーサラリーマン”。観客はその姿に、通勤地獄や上司とのアツレキや、現実の世界にもがく己の姿とを重ね合わせ、いっとき笑い飛ばしてしまうのです。日本のモーレツ社員の悲哀を、強烈なまでにデフォルメして、時にシニカルなギャグで包み込んでいく。あのノーテンキな馬鹿笑いとともに、唄って踊って所せましと駆け回る植木等の姿は、まさに「ミュージカルスタア」のようです。

それは、実社会の中で抑圧される平凡な弱き人間の心の代弁者のようで、痛快なまでに破天荒な男の人生讃歌でもありました。

かつて、人権運動にも身を投じて、幾度もの投獄経験まである僧侶を父に持つ男は、酒もギャンブルも無縁にして、あの無責任でテキトーで大ボラ吹きの名物キャラクターを、誠心誠意、どこまでも生真面目に演じきったのです。

そこに、人間の真理のようなものを垣間見る思いがしました。

珠玉のギャグに彩られた偉大なエンタメ人生。「お呼びでない?」と言いながら、愛しの笑顔で静かに去って行った植木等。合掌。

 

 

『上を向いて歩こう』(1962)

イラスト 志賀コージ

プレスリーに憧れて彼の物まねで周囲の人気者だった少年は、成長するとロカビリー歌手としてステージで唄うようになりました。やがてその人気ぶりは全国区となり、ひとつの歌がアメリカをも席巻するのです。坂本九が唄って、アメリカのビルボード誌で日本人唯一無二の全米1位を獲得した名曲『上を向いて歩こう』です。今とは違って、情報の量や質において格段の差があった昭和30年代では、全米1位という偉業も特に大々的に取り扱われなかったというのもビックリします。

この映画は、その名曲をベースに、日活の青春スタアに囲まれて九ちゃんスマイルもキラキラと、“若人”という言葉が何のてらいもなく心に沁みてくる作品です。

浜田光夫のヤンチャぶりが微笑ましくもあり、吉永小百合の可憐でキリリとした熱い瞳に胸打たれ、詰め襟姿も初々しい高橋英樹のやり場のない怒りにグッと拳を握りしめる。

蒼き果実のような昭和の青春群像が、あの名曲に乗せて謳い上げられます。

私が子供の頃から、まるで子守歌のような温もりで、いつも身近に居てくれた愛すべき歌『上を向いて歩こう』。今でもこの曲を聴けば、何故か心に浮かぶのは、都電と呼ばれた路面電車、駄菓子屋で飲んだラムネ、ベーゴマに草野球、そして粗い画像のブラウン管テレビ。

当時は何気なく聴いていたこの歌が、今なお心の琴線に触れる名曲として生き続けている。

悲しいわけではないのに、涙がこぼれるのはなぜ?

人生の節目に立ちはだかる苦境の時、未曽有の困難に直面した時、この歌は、私たちの心に温かいものを灯してくれました。万人の心を、不思議なまでに解きほぐす神秘の泉のような歌。日本の歌謡史において、これもまた唯一無二の存在だと思います。

それにしても、アメリカでのタイトルが『sukiyaki』とは酷い。当時の日本をイメージするものが、「ゲイシャ」、「フジヤマ」、「スキヤキ」だったとはいえ、これではこの歌の持つ哀感も奥深さも台無しです。怒りさえ覚えます。


 

『座頭市物語』(1962)

イラスト 志賀コージ

盲目でありながら居合の達人の流れ者、市が繰り広げる股旅映画。

己の命守るため、時に意に反して人を斬ってきた渡世人=アウトローの悲哀を、その背中で魅せる勝新太郎の名人芸! 市の背負った哀しみ、怒り、優しさ、弱さを、指先はおろか、まつ毛に至るまで震えるような息づかいを感じさせる入魂の演技で、勝と市とがひとつになった希代のはまり役となりました。この天才は、『座頭市』シリーズの他にも多くのヒットシリーズを生み、一方でいくつもの問題や事件さえも引き起こしました。黒澤明の意欲作『影武者』の降板騒動では、勝新らしさが良くも悪くも爆発しましたね。あの頃から、もはや勝新太郎を主役にメガホンを取るのは勝新太郎本人しかいない、そんな存在となっていたのでしょう。こじんまりとワクに収まるようでは勝らしくなく、さりとて独りでは映画は撮れず、そんなジレンマはファンも同じでした。その天賦の才と、人を引きつけてやまない愛すべきキャラクターは、多くの人を魅了しましたね。破天荒な生き様も強烈に焼き付いた名優にして怪優でした。

コメントする