似顔絵で綴る名作映画劇場『迫り来る恐怖と戦慄にも立ち向かうあなたへ』
迫り来る恐怖と戦慄にも立ち向かうあなたへ
不気味な現象! 異形の物体! 狂気の殺戮! 襲いかかる魔の手から逃れるすべはあるのか⁉ それでも何かに魅入られたかのように恐怖のトリコになってしまう人にはおススメの作品をご紹介します。
『羊たちの沈黙』(1991)
若い女性が殺害され、なおかつその皮膚を剥ぐ、というおぞましい事件が連続して起こる。犯人の足取りは皆目つかめない。焦りの色を濃くした捜査当局は、元精神科医にして自らも猟奇的殺人犯であるレクター博士に、犯人の心理分析を依頼する。収監中の精神病院に向かい、彼の助言を引き出すという任務を担ったのが、FBIの女性実習生。彼女に興味を持った博士は、彼女自身の心理分析をさせる事を条件に引き受ける。
やがて、連続殺人犯の輪郭と並行して、女性実習生の心に潜むあるトラウマが浮かび上がる。事件の本筋とは別な、彼女の心のひだを一枚ずつ剥いでいくような展開は、見事なまでにスリリングです。博士の助言が功を奏し、事件は無事に解決。女性実習生も正式なFBI捜査官に昇格する。一方では、究極の猟奇殺人犯であり、犯罪心理学のスペリャリストでもある博士自身が、看守を殺害して野に放たれてしまう!
映画の余韻に浸るには、あまりに恐ろしいエンディングでした。
『セブン』(1995)
次々と発生する連続猟奇殺人事件。犯行現場には謎めいた言葉が残されている。引退間近のベテラン老刑事と、血気盛んな新米刑事が事件を担当する。老刑事は、謎の言葉が「キリストの七つの大罪」になぞられている事に気づく。それは、キリスト教における“悪しき七つの罪源”。すなわち、「傲慢」、「嫉妬」、「憤怒」、「怠惰」、「強欲」、「暴食」、「色欲」である。やがて、決死の捜査で追いつめた犯人。事件の全面解決を誰もが信じた時、この世の終焉のような地獄絵図が幕を開けるのだった‼ 全編を通じたダークな世界観の中にも、どこかスタイリッシュな映像美に圧倒されます。オープニングシーンでの、切り刻んだモンタージュのような、あるいはノイズを多用したりと、どこか不完全な画像処理。そして、エンディングでは、デビッド・ボウイの歌声とともに、クレジットは下からではなく、上から下へと流れ落ちていく斬新さ! 秀逸!
そして・・・、映画の最後は言葉を失います。ブラット・ピットの悲痛の涙。モーガン・フリーマンのやり場のない怒り。ケビン・スペイシーの迷宮の犯罪心理。
老刑事はつぶやく、「この世界は絶望に満ちている。だからこそ戦う価値がある。」
この救いのない絶望感に、あなたは耐えられるでしょうか?
私は、この作品を年に一度は観ています。
『シックス・センス』(1999)
死者の姿が見えてしまう少年と、小児精神科医との出会い、そして心の交流。
ひとつひとつのエピソードを丁寧に組み合わせていくストーリー展開の妙。いくつもの不可解のパズルを重ねて、そして最後のピースが埋まった時、哀しくて胸を打つ衝撃の結末に、涙がこぼれます。M・ナイト・シャマラン脚本、監督による、彼の最高傑作です‼
周囲から“バケモノ”扱いをされ、母親からも気味の悪い存在として疎まれる少年。演じたハーレイ・ジョエル・オスメントが見事です!ブルース・ウィリス演じる医師のサポートもあり、心の落ち着きを取り戻していき、自らの特異な能力に困惑し怯えながらも正面から向き合うと、死者たちが頻繁に自分を訪れるのは、何かを託したがっている事に気づくのです。
少年の母が抱き続けてきた、自身の亡き母とのちょっとした誤解から生じた心の傷。それを、少年の持つ力によって真実を理解し、母親も少年の不思議な能力を認めるくだりは感動的です!「恐怖の映画」とは、ひと味違います。知的なスリラーであり、不思議なファンタジーであり、哀しいラブストーリーなのです。何よりも、マイノリティへの偏見、差別に対する静かなアンチテーゼでもあります。ブルース・ウイリスが、物静かで哀愁香る男を演じて新境地を開いた名演でした。
『激突!』(1971)
大学を出て間もない25歳の青年が監督をして絶賛を浴びたのがこの作品。
監督の名はスティーブン・スピルバーグ。
あの大ヒットドラマ『刑事コロンボ』の初期の回において監督をしていたことを、後に映画ファンの誰もが知るのですが、この当時はまだ、これほどまでの歴史的大監督にまで登りつめるなど想像もつきませんでした。もともとこの作品は劇場公開用としてではなく、テレビ用に制作されたもので、日本では急きょ劇場映画として公開されたのです。そして多くの観客の心をわし掴みにしたのです。個人的には、スピルバーグ監督の多くの作品の中でも、この『激突!』が一番好きですね!
セールスマンの男が商用で車を走らせている。周囲に家など無い広大な土地を行くハイウェイ。彼の車の前を超大型のタンクローリーが遮るようにノロノロと走っている。それをヒョイと追い越すと、何を思ったかタンクローリーはスピードを上げて追いかけて来た。始めは軽い“あおり運転”かと思ったが、徐々に身の危険を感じた男は必死に逃げる。すると途中の踏切りで停車する彼の車ごと、タンクローリーは列車が迫る線路へと押し込もうとする。
明らかに殺意を持っている! 警察に通報しようと電話ボックスに入ればそこに突進してなぎ倒す。もはやまともな相手ではない。このジワジワと押し寄せてくる恐怖の波に圧倒されます。何よりも怖いのは、最初から最後までタンクローリーの運転手の顔が現れないこと。
わずかに足元のウエスタンブーツと手が映るのみなのだ。決死の逃走劇の末に、やがて男の
車はオーバーヒートを起こして青息吐息に。「殺される・・・」—— 逃げられないと悟った男は、タンクローリーに壮絶な闘いを挑むのだった。
全編を通して主たる登場人物はセールスマンの男のみ。途中で立ち寄るカフェの店主や何人かの客以外は現れない。終始顔の見えないタンクローリーの運転手の代わりに、タンクローリー自体に“人格”のようなものを感じさせる、この演出法がすごい‼
『ジョーズ』(1975)
まだ本格的なCGなど無かった時代。不気味な重低音の音楽だけで、迫り来る殺人ザメの存在を知らしめる圧巻の手法には脱帽です! 私が本格的に映画を観始めた70年代初め。30歳になったばかりのフランシス・フォード・コッポラを筆頭に、ハリウッドには新しい世代の新進気鋭の監督たちが登場しました。その中にはまだ20代のスティーブン・スピルバーグもいました。まだまだ無名に近い存在でしたが、なんと才能あふれる若手監督が現れたものだと感嘆したものです。彼の出世作であるこの『ジョーズ』は、終盤に至るまでサメは姿を見せません。その気配は、例の重低音でのみ表現します。恐ろしいまでに計算された手法は、映画界に革命を起こしたのです。見事というほかはありません。惜しむらくは、姿なきサメの恐怖があまりに強大すぎて、実際に出現したサメに対する怖さという点では、ややトーンダウンしてしまいます。前半は極上の心理サスペンス、後半は派手なパニック映画、そんな趣ですね。名作映画である事には疑う余地はありませんが、少しばかりサメた視点での感想です(笑)。
『エイリアン2』(1986)
リドリー・スコットが監督した『エイリアン』(1979)の続編として、ジェームズ・キャメロンが監督したのが今作品です。どちらも優れた恐怖映画です。
古くから映画の世界では、恐怖映画には女性の悲鳴はなくてはならないものでした。つまり、女性は怪人・魔物・巨大生物などに襲われ、逃げ惑う、か弱きヒロインでした。しかし、この『エイリアン』シリーズにおける主人公の登場がそれを一変させたのです。彼女は震え、鼻血を流しながらも、未来兵器に身を包み、未知なる生物と単身闘うのです。これがひとつの歴史の転換だったのです。スラリとした細身の主人公が、エイリアンの卵を産み続ける女王蜂のような“エイリアン・クイーン”を焼き払う姿に手に汗握り、そして拍手喝采したのでした。恐怖に立ち向かい、傷つき、それでも反撃する主人公が、どんどん美しくなっていく姿に魅了されます。