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2025/07/07 09:37

【ネタバレあり】渇ききった人間関係 『夏の砂の上』

試写会にて『夏の砂の上』を鑑賞した。ひと夏の物語が、これほどまでに静かで、そして深く胸に残るとは思わなかった。本作は、派手な展開も、大きな事件もない。けれど登場人物たちのちいさな変化や感情の揺れが、じわじわと心を満たしていく。舞台は雨の降らない長崎の夏。水のない街で、人々の乾いた心が交差し、やがてほんのわずかな潤いに触れていく様子が、丁寧な映像と演出で描かれている。
この作品の魅力は、言葉では語りきれない“余白”にある。音、空気、まなざし、沈黙——そういった細部が、観る者の感情を静かに揺さぶる。
以下では、本作で印象的だった要素をいくつかの視点に分けて紹介していきたい。


■目次

“乾き”と熱気が重なる心象と風景描写
一滴の雨がもたらす“潤い”と関係性の変化
身体的トラウマと自己責任の問い~指の切断シーンの象徴性~


(c)2025映画『夏の砂の上』製作委員会

概要

映画『美しい夏キリシマ』の脚本、映画『紙屋悦子の青春』の原作を手掛けた長崎出身の松田正隆による《読売文学賞 戯曲・シナリオ賞受賞》の傑作戯曲を、濱口竜介、三宅唱に次ぐ次世代の映画界を担う気鋭の演出家・玉田真也の監督・脚本で映画化。本作は、雨が降らない夏の長崎が舞台となり、撮影は、2024年9月に全編オール長崎ロケで行われ、坂の多い長崎の美しい街並みが物語の余白を埋める大きな役割を果たしている。原作となった松田正隆による戯曲は、平田オリザが1998年に舞台化して以降、幾度となく舞台で上演されており、2022年には主演・田中圭、演出・栗山民也で上演された。監督の玉田真也も自身の劇団「玉田企画」で2022年に上演した思い入れの深い作品で、念願が叶い今回の映画化となった。

あらすじ
雨が一滴も降らない、からからに乾いた夏の長崎。
幼い息子を亡くした喪失感から、幽霊のように坂の多い街を漂う小浦治(オダギリジョー)。
妻の恵子(松たか子)とは、別居中だ。この狭い町では、元同僚の陣野(森山直太朗)と恵子の関係に気づかないふりをするのも難しい。働いていた造船所が潰れてから、新しい職に就く気にもならずふらふらしている治の前に、妹・阿佐子(満島ひかり)が、17歳の娘・優子(髙石あかり)を連れて訪ねてくる。おいしい儲け話にのせられた阿佐子は、1人で博多の男の元へ行くためしばらく優子を預かってくれという。こうして突然、治と姪の優子との同居生活がはじまることに……。
高校へ行かずアルバイトをはじめた優子は、そこで働く先輩の立山(高橋文哉)と親しくなる。懸命に父親代わりをつとめようとする治との二人の生活に馴染んできたある日、優子は、家を訪れた恵子が治と言い争いをする現場に鉢合わせてしまう……。

(c)2025映画『夏の砂の上』製作委員会

以下内容はネタバレを含みます。


“乾き”と熱気が重なる心象と風景描写


本作は、その舞台となる「雨の降らない長崎の夏」という設定自体が、物語の深層を語る重要な装置となっている。画面に映る乾いた地面、からっ風に吹かれる草木、絶えず響く蝉の声──それらは単なる背景ではなく、登場人物たちの心の渇きや閉塞感を表す象徴として機能しているように感じた。

中でも、主人公・治(オダギリジョー)の“乾き”は圧倒的だ。最愛の息子を亡くし、妻との関係もすでに壊れ、ただ存在するだけの毎日を淡々と過ごしている。そんな彼の生活を包むのが、水のない街と、汗が滲むような湿気と熱気である。その描写に一切の説明的な言葉はなく、ただただ静かに、無言のカメラが彼の孤独な背中を追う。その空気感が、観ている側にもじわじわと染み込み、心の奥にまとわりついてくる。

(c)2025映画『夏の砂の上』製作委員会

姪の優子(髙⽯あかり)もまた、過去の体験から心を閉ざしており、彼女も違う意味で“乾いて”いる存在だ。二人は対話を重ねるわけではないが、同じ空間で同じ熱に晒されるうち、言葉ではなく“乾き”の共鳴によって、わずかな距離を縮めていくように見える。

この映画は、乾いた風景を通して、観客にも“心のひび割れ”の感覚を体験させる。その上で、誰かと同じ空気を吸うこと、同じ暑さを感じることが、少しずつ感情を動かすことに繋がるという、極めて静かでささやかな“再生の物語”として進んでいく。風景と心象が見事に溶け合った本作の空気は、観終わったあともしばらく胸の中に残り続ける。


一滴の雨がもたらす“潤い”と関係性の変化


物語の終盤、長く続いた猛暑と断水の中で、ついに雨が降り始める。その瞬間は、単なる天候の変化ではなく、物語全体の空気を一変させる象徴的な転換点となっている。渇ききった空と地面を潤すその雨は、まるで登場人物たちの固く乾いた心に、初めて水がしみ込むような感覚を伴う。特に印象的なのは、治(オダギリジョー)と優子(髙⽯あかり)が雨水を手ですくい、静かに口に運ぶ場面だ。何気ない一瞬ではあるが、そのしぐさに互いを認め、分かち合おうとする意志が確かに込められている。

(c)2025映画『夏の砂の上』製作委員会

ここには、劇的な和解や説明的なセリフは一切ない。ただ、同じ雨を浴び、同じ潤いを感じるという“共有”の行為が、二人の間にほのかなつながりを生み出していく。人は、共に暑さを耐え、渇きを知ることで初めて、他者の痛みに触れられるのかもしれない。そんな静かな共鳴が、この雨のシーンには宿っている。
また、この雨は決して長くは続かず、すぐに止んでしまう。だからこそ、その瞬間に感じたわずかな希望や優しさが、よりいっそう大切なものとして胸に残る。ほんのひとときの潤い。それでも、それは確かに“再生”への兆しとして、深く沁み込んでくる。


身体的トラウマと自己責任の問い~指の切断シーンの象徴性~


物語の中盤、治(オダギリジョー)が中華料理店で自らの指を三本切り落とすという場面がある。映像としてのショックは大きいが、そこに込められた意味はさらに重く深い。この行為は単なる事故や突発的な衝動ではなく、長年彼の内側に溜まり続けた自責や痛みを、身体という具体的なかたちで表現した“行動する苦悩”であると感じた。

息子を失ったことへの後悔、妻との距離、何もかもが止まったままの生活——それらが彼をじわじわと追い詰めていく中で、治(オダギリジョー)はついに“痛みを見えるかたちで外に出す”という選択をする。切断された指は、喪失の象徴であり、同時に「もうこれ以上隠してはおけない」という無言の告白のようでもあった。

(c)2025映画『夏の砂の上』製作委員会

この出来事のあと、治(オダギリジョー)の手には包帯が巻かれ、それを見つめる優子(髙⽯あかり)の視線が静かに描かれる。言葉にしなくとも、その視線の中には驚きや哀しみだけでなく、少しの理解と共感がにじんでいるように見える。痛みを負うことでしか、過去と向き合えなかった治。その姿は痛ましくもありながら、同時に“変化”の兆しでもある。痛みを引き受けたその先に、何かが始まり得るのだという希望が、かすかに見えてくる。治(オダギリジョー)にとっての“再生”は、劇的な回復ではなく、この出来事を境に始まる静かな歩みに他ならない。


(c)2025映画『夏の砂の上』製作委員会

映画『夏の砂の上』
出演:オダギリジョー 髙⽯あかり 松たか⼦ 森⼭直太朗 ⾼橋⽂哉 篠原ゆき⼦/ 満島ひかり/ 光⽯研
監督・脚本:⽟⽥真也 
原作:松⽥正隆(戯曲「夏の砂の上」) 
⾳楽:原 摩利彦
製作・プロデューサー:甲斐真樹 
共同プロデューサー:オダギリジョー

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