人生いろいろ・・・「トキワ荘の青春」なのだ!
「Cool Japan」の原点がここに・・・!
「トキワ荘」を知ってるかい?あ、ドラマ「北の国から」でしょ!
そりゃ、倉本聰、人間だろが、バ~タレ!!
「トキワ荘」はアパート、東京都豊島区南長崎三丁目(椎名町)にあったの!
この「トキワ荘」こそが、日本が世界に誇る「マンガ文化」の大きな原点。聖地なのだ。
ここに集い、後に超売れっ子となって日本の「マンガ文化」を大きく開花させた天才マンガ家たち。その青春群像劇が・・・
映画「 トキワ荘の青春 」
トキワ荘。1952年に建てられた木造二階建てのアパート。
ここに“マンガの神様”手塚治虫が住んだのを切っ掛けに、マンガ家志望の若者たちが集まって来る。
若き日の石森章太郎(後の石ノ森章太郎)、藤子不二雄、赤塚不二夫など、豪華な顔ぶれ。
そんな彼らの共同生活でのドラマが描かれて行く。
中でも、頼れる兄貴的存在が本木雅弘が演じる寺田ヒロオ。この物語の主役である。
ちなみに、寺田ヒロオは1959年に創刊される「少年サンデー」に「スポーツマン金太郎」を連載。
他にも「背番号0(ゼロ)」などの連載を持ち週刊少年マンガ雑誌ブーム初期に、特に野球もので人気となったマンガ家なのだ。
夢はあるがお金はないトキワ荘での貧乏暮らし。
その中での悩みや金欠の問題を兄貴分の寺田ヒロオに、それぞれが相談。力やお金を貸して貰ったりと世話になる。
この時代を振り返り、赤塚不二夫はトキワ荘で塩をふったキャベツを肴に安酒飲んで、お金はなくても映画はよく観たと、後年語っている。
マンガ家として売れっ子になる日を思い描いていた若者は皆、そうだったのであろう。
でも、貧乏の中で観た映画のエキスが大きな栄養になったのは間違いないはず。
そして、物語はあんなこんな(それは映画を観てのお楽しみ)があって、最後、藤子不二雄、赤塚不二夫らと相撲を取るシーンは名場面。寺田が手ぬぐいで涙を拭きながら笑顔で相撲をとる。
後輩たちの希望に満ちた旅立ちを顔では祝いながらも、自分自身のこらえきれない思いが涙となって流れていく。
この時の寺田ヒロオの胸中を思うと哀しくて・・・ホントに良いシーン。
茅ヶ崎市東海岸北 X丁目
寺田ヒロオの家は私が子供の頃住んでいた社宅の近所にありました。
広い敷地の家でキレイな緑の芝生。脇を通ると庭の物干し竿には、いつも野球のユニフォームが。
奥さんは、あの大ヒット曲「上を向いて歩こう」の作曲家であり、ジャズ・ピアニストでもあった中村八大の妹さん。
可愛いらしく人の良さそうな奥さんだったのを子供心にも覚えています。
自転車に幼い息子や娘を乗せている姿もよく見かけました。
その頃の寺田ヒロオは白いワイシャツ姿で、ボタンをしっかり上まで止めていたイメージが私にはあります。
背の高い、実直そうな人でした。
しかし、時間が経つにつれ段々と家の外壁は塗装が剥がれ落ち、雨戸も閉めっぱなしの事が多くなりました。
そして、その後、家はなくなり広い敷地は幾つかに分譲され売りに出されたのです。
1970年代中頃には寺田ヒロオは筆を折り、すでに漫画界から引退していた事を後で知りました。辞めてからは家にこもり、最晩年には一切、人間関係を絶つような生活だったと聞きます。
その時の事をドキュメンタリー番組で藤子不二雄は「緩慢なる自殺だった」と証言しています。
だから人生、面白い
本木雅弘が演じた寺田ヒロオ。面倒見てきた後輩たちに抜かれ、時代に取り残されていってしまう。
映画の中で、旅立つ後輩たちと相撲をとるシーンで流したあの涙。後年の寺田ヒロオ本人のナマの姿を知っているだけに深く、深く・・・心に滲みました。正直、泣いてしまいました。
正に、人生におけるドラマ。
色んな巡り合わせの中で繰り広げられていく様々な人間模様があり、そして、色んな意味での人生の面白さがある。本木雅弘、“モッくん”がとにかく良い、名演。
夢に向かって走る、若き日の天才マンガ家たちの青春物語をぜひお楽しみあれ!!