似顔絵で綴る名作映画劇場『サムライの美学に酔いしれたいあなたへ』
サムライの美学に酔いしれたいあなたへ
武に生きる漢たちの情念は、勇猛で悲壮な炎と燃え上がります。その雄姿の背中は気高く哀しいまでに美しい。蒼白い刃の光を受けたサムライたちの横顔が、時代のうねりの中で紅く染まります。そんな漢たちの激しい生き様を描いた作品をご紹介します。
『用心棒』(1961)
黒澤明×三船敏郎の黄金コンビがガチンコ対決の様相で創り上げた傑作時代劇!
黒澤は細かい時代考証や話のつじつまには目をつぶり、徹頭徹尾、娯楽性を追求したと語っています。そして三船は、恐ろしく腕が立ち、腹の中が読めない得体知れずの浪人をひょうひょうと、かつイキイキと演じています。彼が年輪を重ねるごとに度々演じるようになった、眉間にシワを寄せた軍人や武将や歴史上の大物役を、大御所然とした風格で魅せるのも良かったのですが、この作品のように、どこか武骨の中にも笑いを誘う無頼漢が、三船の真骨頂ではないでしょうか。
黒澤映画の魅力のひとつでもある画面の構図の妙も随所に見ることが出来ます。画家志望でもあった黒澤の絵コンテは有名ですが、細部にこだわり入念に構築された画像は、時にハッとするほどの美しさを放ちます。仲代達矢率いる一派と三船が対峙する場面などは最たるもので、ゾクゾクするような張り詰めた空気が支配し、マカロニ・ウエスタンが真似をしたくなる気持ちも分からなくもないですね。
そして特筆すべきは、従来の時代劇に見られる演舞のごとき華麗な殺陣を排除して、あくまでもリアルに泥臭く斬り合うことにこだわった剣戟シーンを確立したこと。この強烈なインパクトは、翌年に製作された続編とも言うべき作品『椿三十郎』のラストシーンにおいて、沸点に達するのでした。
『椿三十郎』(1962)
前年に作られた『用心棒』の続編とも姉妹編とも言える作品。
上役の汚職を暴いて告発しようとする真っ直ぐな若侍たちの密議を偶然聴いてしまった浪人。若侍たちのあまりの世間知らずで稚拙な計画にあきれながらも、行きがかり上、つい手を貸してしまう。不正の事実を揉み消そうとする側と若侍たちとの間に立って、巧妙に策を練りながら丁々発止の駆け引きで周囲をも煙に巻く浪人。彼をただ者ではないと見抜いた敵方の武士とも不思議な心の交流を持ちながら、時にユーモラスに、時に荒々しい殺戮を見せながら、物語は、世界中の誰もが息を飲んだあの映画史に残るラストシーンへと駆け抜けるのです。至近距離で向かい合うふたり。瞳の刃を光らせながら微動だにしない。長い長い沈黙と瞬きすら許されない緊張の重し。張り詰めた空気が寒気を誘う。この時、両者を演じる三船敏郎と仲代達矢は、互いの心で“17”を数え、抜刀する絶妙のタイミングを計ったといいます。そして、まるで滝が逆流したかのような怒涛の鮮血。モノクロームなればこその凄みの頂点がそこにあります。
『七人の侍』(1954)
黒澤明監督の代表作のひとつです。
後にハリウッドで西部劇に置き換えて『荒野の七人』という、もうひとつの名作が生まれます。こちらは、主演のユル・ブリンナーを筆頭に、若き日のスティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンなどキラ星スタアたちの出世作としても知られています。
さて本家の『七人の侍』です。
3時間27分という長編にて、その圧倒的な迫力と力強さとでいささか疲れますが(笑)。
戦国乱世の時代。荒くれの野武士集団による食料略奪と女たちへの凌辱が横行していた。
自らが野武士たちと闘う術を持たない村人たちは存続をかけて立ち上がる。街へ出て侍を雇い、野武士たちを打ち負かしてもらうのだ。しかし、貧しい農村であるため報酬など微々たるもの。そんな条件で命を張る者など居るだろうか?
難航の末、運よく出会った心ある初老の武士の力を借りて、個性あふれる侍たちが選ばれた。男たちの死闘が幕を開けた。
その着想の面白さ、侍たちのキャラクターの妙、雨中の戦闘シーンのダイナミズム。現代においては“問題”になるであろう超過酷な撮影現場。文字通り命を張った役者たちの熱気がスクリーンの隅々まで焼き付けられています。今となってはなかなかチャンスは無いのですが、やはりこの作品はDVDではなく、劇場の大きなスクリーンで観てこそ、その魅力を堪能できると言えます。私は幸運にも、銀座のテアトル東京の大画面で鑑賞しました。
遠くに響く野武士集団の馬の蹄の音が徐々に大きくなり、胸に迫るほどに押し寄せてくるくだりは圧巻です!
『蜘蛛巣城』(1957)
こちらも黒澤映画の代名詞のひとつ。
シェイクスピアの『マクベス』を下敷きにした戦国の地獄絵巻。
家臣の反乱によって、おびただしい数の矢を全身に浴びる哀しき城主の末路。
映画史に残る名シーンでも有名な傑作です。
当然ながらCGなど無い時代に本物の矢を射ち、生死の淵を逃げ惑う男の狂乱の極みを、黒澤独特の崇高なまでの様式美の中に描いてみせたのです。自分にめがけて嵐のように飛んで来る悪魔の矢たち。その恐怖はいかばかりか。こんな撮影が許される時代でもありました。このシーンは無数の透明なテグスを壁に打ち付けてそれをピンと張り、本体に穴をあけてそのテグスを貫通しながら飛ぶ特注の矢を使いました。つまり、三船をめがけて矢を射つというより、あらかじめテグスを通して定められた箇所に矢が刺さるように設定され、そのギリギリの壁の位置に三船が立つ、という段取りなのです。とは言っても、その恐ろしさは三船以外には到底わからないでしょう!「先端恐怖症」の私には死んでも出来ません!(笑)
黒澤を師と仰ぐフランシス・フォード・コッポラが『ゴッドファーザー』で描いた殺戮の場面において、この三船が嵐の如く矢を浴びる画像に強く影響を受けたであろうシーンがありますね。マフィアのドンの長男ソニーが、敵の罠にはまって銃弾の嵐を受けて絶命するというあの場面です。事の真意は分かりませんが、私はそう確信しています。
『七人の侍』もそうですが、この『蜘蛛巣城』でも、全般的に役者たちのセリフが良く聞き取れません(苦)。特に三船のそれは壊滅的です。録音技術によるもの、あるいは黒澤自身が音声の明瞭さよりも画像のリアルさを最優先した等々、諸説あります。往年の黒澤作品がある意味日本以上に海外で評価が高い理由に、彼らが「字幕」や「吹き替え」で鑑賞しているから、という意見が昔から多くありましたが、それもまんざら否定できないと私も思います。しかし、それらを差し引いても、黒澤が残した作品群は驚愕であったと言えます。
『レッド・サン』(1971)
アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン、三船敏郎が共演する異色の西部劇。
監督が『007』シリーズで名を馳せたテレンス・ヤング、カメラマンは『ローマの休日』のアンリ・アルカン、音楽が『アラビアのロレンス』など多くのヒット作を手がけたモーリス・ジャール、という一流スタッフが終結した大作です。
日米修好の贈り物として合衆国大統領へ宝刀を献上する任務を帯びた侍大使たち。彼らを乗せた特別列車を強盗団が襲撃し、金貨と一緒に、あろうことか大切なその宝刀まで奪われてしまう。宝刀奪還の命を受けて、ひとりの侍が見知らぬアメリカ西部の地で犯人捜しに奔走するのです。強盗団のボスをブロンソン、彼を裏切り金品を独り占めせんとする相棒をドロン、命を懸けて刀を取り戻そうとする武士を三船が、三者三様の味のあるいい演技をしています。日本人が登場すると、とかく奇異な描き方をされがちなこの種の作品ですが、意外なほどに(?)上手に作られていましたね。究極の西洋と東洋の文化の壁と調和を描いた点において、その後の多くの作品にも影響を与えたと言えます。公開当時、特に日本で大人気だったドロンとブロンソンを相手に、三船敏郎の存在感が際立っていましたね。
『柳生一族の陰謀』(1978)
時代劇の“王者”として君臨していた東映でしたが、時代の流れと共に劇場での“チャンバラもの”が衰退して久しい70年代。すでに「時代劇」はテレビで観るものとなっていた風潮を一刀両断とばかりに、12年ぶりに総力を挙げて製作された東映時代劇の大作です。
三代将軍を継承すると目されていた徳川家光と、それを阻止せんとする勢力。覇権争いの渦は激流となり、やがて動乱を呼び、どす黒い雲が江戸城を闇に包んだ。謀略が謀略を生み、さらなる企みが激しく交差する。史実に大胆なフィクションを加えながら、最後には家光は斬首されるという壮絶なラストが待ち受けています。家光を将軍へ推すために暗躍する家光の指南役・柳生但馬守を、かつて東映と袂を分かって久しい萬屋錦之介が鬼気迫る演技で圧倒します。しかし、他を圧倒しすぎるのです。監督の深作欣二の構想ではもう少し現代的なリアリティを出したかった。それに反して錦之介の演技は、往年の時代劇よろしく、あまりに“大きすぎた”のです。他の役者のセリフ回しとどうにも嚙み合わない。監督はもちろん、
家光役の“弟分”松方弘樹が「錦兄ィ、もうちょっと力を抜いた芝居を。周りがついて行けません。」と懇願するも、頑として聞き入れませんでした。しかし、ラストでの家光の生首を抱えながら、「夢じゃ! 夢じゃ! 夢でござるうぅぅぅー‼」と狂乱する様は、まさに錦之介にしか出来ない大芝居でした。歌舞伎の舞台であったなら。大向こうから「萬家!」と声が掛かる場面です。これを丹波哲郎が演ったら、霊界の使者よろしく“ほのぼのホラー”となり、三國連太郎が演ったら、あまりにクセが強すぎて“実録スプラッター”となっていたでしょう(笑)。やはり、永遠の銀幕時代劇スタア“錦兄ィ”の唯一無二の「華」が、この作品の大成功を生んだのですね。