【ネタバレ】『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』賛否両論の解釈を解説・考察
まず、記事を読んでいただく前に一言。
映画に対する【否】について。私個人として、どんな映画であろうと【否】と受け止めることには同意しない。それは単に「好きじゃない、理解することができない」だけであって、その作品を【否】として評価すべきものでないと断言したい。
特に今回、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』については”賛否”という言葉が飛び交っているため、そういった表現に対しては徹底的に立ち向かっていきたい。そして、この解釈は個人的に腑に落ちた解釈であるため、正解不正解ではないことだけは念頭に置いて読んでみてください。
そして、この解釈に「ハッ!」とした時はもう一度観たくなるかもしれません。
目次
■「影」について
■偶像の憑依
■フォリ・ア・ドゥと「聖者の行進」
~あらすじ・概要~
「バットマン」に悪役として登場するジョーカーの誕生秘話を描き、第76回ベネチア国際映画祭で金獅子賞、第92回アカデミー賞で主演男優賞を受賞するなど高い評価を得たサスペンスエンターテインメント「ジョーカー」の続編。トッド・フィリップス監督と主演のホアキン・フェニックスが再タッグを組み、ジョーカーが出会う謎の女リー役でレディー・ガガが新たに参加した。
理不尽な世の中で社会への反逆者、民衆の代弁者として祭り上げられたジョーカー。そんな彼の前にリーという謎めいた女性が現れる。ジョーカーの狂気はリーへ、そして群衆へと伝播し、拡散していく。孤独で心優しかった男が悪のカリスマとなって暴走し、世界を巻き込む新たな事件が起こる。
トッド・フィリップス監督のほか、脚本のスコット・シルバー、撮影のローレンス・シャー、前作でアカデミー作曲賞を受賞した音楽のヒドゥル・グドナドッティルらメインスタッフも続投。第81回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。
ここからはネタバレとなるため、未鑑賞の方はご注意下さい。
※また内容は個人的解釈として、執筆しています
■「影」について
カートゥーンアニメのような始まりで前作の振り返りをした模した『おれとおれの影』。最後まで観ると、この最初のアニメがどういう意味を成してくるのかが理解できた。
影:暗い、はっきりしたものではない、ずっとついて離れない
影に最初にフォーカスさせている意図は、JOKERというものは「暗く、はっきりせず、つきまとう」だと暗示していると読み取った。実際にアニメの中でもアーサーとはいきなり分裂し、自分の思うようにいかず、最終的にはアーサーが影に操れられるかのようにして疲弊する。そして、暴れまわった影はふとした拍子にアーサーへと戻っていく。
この物語の最初で影(JOKER)とアーサーの関係性がハッキリ明示されていたんだと解釈した。作中でリーとミュージカルのように踊ったり、囚人の中を舞い踊っている妄想なども全て影(JOKER)のシーンを表しているのであれば、筋が通った解釈ができる。
1作目ではアーサーがJOKERになるまでの成り立ちを描いていたが、本作ではアーサーがJOKERになっていないんですよという云わば、JOKERの本質を改めて描いた作品だと言える。
さらに、"影響力"という言葉と文字が意味するところが、本作にぴったりだと感じた。「影」が他の人に対して「響」く「力」と書いて、"影響力"ということなので、日本語でのこじつけにはなるが言葉との関係性も結びついてきているようにも思えてくる。(これは私の妄想のし過ぎかもしれない)
■偶像の憑依
本作のキャッチコピーにも含まれていた”衝撃のラストに備えよー”は上記でも解説した通り、アーサーがJOKERではないという点だと分かる。リーと初めて出会った時も「本物のジョーカーに会えるとは」という発言の時点で、リーとしてもアーサー個人として見ていない。
アーサーではなく、影であるJOKERというもう一人の人物が目に映っているのだ。その根拠として、「僕はJOKERではない」と裁判中に吐露した瞬間にリーを含めた傍聴席にいたJOKER信者が「アイツはもうJOKERではないんだ」と判断して離れていく。その後の裁判所が爆破されるのは、まだ影(JOKER)しか見えていない人間が起こした行動で、車で一緒に逃走したのも影(JOKER)しか見えていないため、以前のリーのような行動を取ったと解釈できる。
しかし、唯一アーサーを見ていた人間がゲイリー(元同僚)である。裁判所内でも、「いつも良くしてくれていたのはアーサーだった」と恐怖におびえ、涙ながらに発言したのもJOKERとしてではなく、アーサーとして見えていたことがハッキリと分かる。それ故にアーサーの目に涙が浮かべていたのも、アーサーに戻りたくても戻れない影(JOKER)の存在に疲弊していた証拠としても捉えられる。
そして、結末にあるアーサーが刺されるシーン。影(JOKER)の存在しか見えていなかった一人の囚人が、JOKERでなくなった=JOKER(影)が行き場を探しているということ。影は誰かについてくる憑依のようなもので、JOKERという偶像の憑依がまた別の人間に移る瞬間だ。刺す前のジョークも「JOKERではないなら用無しだ」というようなジョークを交えている。
これは定かではないが、アーサーが倒れている後ろで新JOKERが誕生し、刃物で自分の口を横に大きく裂いているような仕草も読みとれる。そのあと、瀕死状態のアーサーの口の端から血が出るのも比喩表現だと受け取れる。
アーサーは結果としてJOKERという偶像に憑依されていただけで、影に操られていた何とも儚い一人の人間であり、それは全て周りの環境が作り上げた恐ろしさもここで再確認できる。
■フォリ・ア・ドゥと「聖者の行進」
フォリ・ア・ドゥとは、フランス語で”二人狂い”という意味を指し、一人の妄想が複数人に感染していく様を指す。まさにリーだけでなく、他のJOKER信者を指した表現としては適格で分かりやすい副題となっている。
そして、もう1つ。私が気になったのは「聖者の行進」という歌である。作中で何度も何度も歌われていて、誰もが聞いたことのある鼻歌でもよく聞く音楽。実はあの曲を選曲している理由もここにあった。
【聖者の行進】
「聖者が街にやってくる」の日本語題でも知られるが、原詞は聖書の黙示録を踏まえ「最後の審判で聖者が天国に入って行くとき、自分も一緒にいたいものだ」と歌うのもの。魂が解放され、天国へ行くことを祝うもの。
もうお分かりですよね。作品が始まった当初から看守が鼻歌で歌っていたこの歌は、JOKER(影)がアーサーから離れるラストの暗示をしていたのです。聖者という人が来ると思い込んでいましたが、本当の意味はここにあったのです。この音楽のチョイスの引っ掛かりが、こういう解釈だ!と自分なりに腑に落ちた瞬間でした。
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投稿を表示素晴らしい考察に目から鱗でした。なるほど、なるほど、と何度も思いながら読ませて頂きました。
聖者の行進が何度も歌われたことには深い意味があったのですね!
いろいろ確認するために、もう一度見たくなりました。DVD出たらですかね。
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投稿を表示やはり書きます。
私は映画評における【否】は有り、と常々考えてます。
ただし、今回の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』におけるネットでの酷評・非定評は「つまらない」とか「期待外れ」の一言で【否】としていて、稚拙な意見ばかり。【否】を書くにしてもそれなりの論理立てが必要で、実は絶賛評を書くよりも難しかったりします。
長くなりそうなのでもう一つだけ書きますと、
今、日本で一番批評が出来ているのはYouTube「エガちゃんねる」の江頭2:50ですね。
法定でのアーサーのメアリーアン・スチュワートへのあの行為は江頭が「笑っていいとも!」で橋田壽賀子にやったソレと被りましたね(笑)。
ともかく、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』はアーサー自らが「ジョーカーではない」と言い切ったシーンが分岐点ですね。
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投稿を表示今作は、魂の器としてのアーサー≒ジョーカーの根幹を飾る表現者の
内幕の要素が昇華に向かう演出が
良かったと思います😉👍
洋楽好きとして使用された選曲も
(特に聖者の行進)は昇華に向かわす
キーワードだったなと観ながらも
思いました🎞🤔
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投稿を表示すみません、ネタバレ踏まないよう、ぼ冒頭の賛否についての「いいね」しました🙇♂️
映画見ましたら、全文拝読いたしますつ
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投稿を表示リーとの純愛ストーリーが始まるのかと思いきや💦
リーですら「ジョーカー」の偶像を追っていた…悲しすぎますね😫💦
ラストにアーサーを訪ねてきた面会者(もう会えなかったけど)って、リーだったのかなぁ…リーであってほしいなぁ…とか 色々考えちゃいますね
「聖者の行進」😱明るい曲調でそういう歌詞とは!まさに「ジョーカー」の葬送にしっくりきます
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