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2024/05/25 21:47

それぞれが持つ正義の行方

違和感の先にあるもの

文化庁芸術祭大賞受賞

監督:木寺一孝

時間:158分

ドキュメンタリー映画


1992年、福岡県 飯塚事件


この裁判は、何か間違ってるんじゃないか。この作品を観ている誰もが感じる違和感。1992年に起きた『飯塚事件』を追うドキュメンタリー。福岡県飯塚市、当時小学一年生の女児2人が登校中に行方不明になる。翌日、2人は遺体となって八丁峠の山林で見つかる。2年後、久間容疑者が逮捕起訴された。本人は、犯行を否認。しかし、あれよあれよと死刑判決。死刑確定から、たった2年で執行された。

私は様々な問題があるのはわかるが、この世に『冤罪』がある限り死刑には反対だ。


捜査関係者の正義


前半は、当時この事件を取材した記者の話を聞きながら、主に事件に関わり既に引退した捜査関係者の話に続く。恐ろしい程、久間容疑者を犯人と思って疑わない警察関係者たち。しかも、この事件の4年前に起きた愛子ちゃん事件の犯人かもしれないと、逮捕後は庭を掘り起こすなどしている。死刑執行が早いことに関しても『冤罪だと言われて再審されると困るから、早くしてしまえとは思わない。遺族を思って行われただけだと思う』と話す警察側。また、DNA鑑定という当時最新の科学捜査の証拠が、既に無くなっていたり切り取りされたものだったりするが、それに対しても『久間をどうしても犯人にしたい?そんな事する必要がないんだから、捏造などしない』と警察は言う。特にDNAについてのくだりは、どう考えても警察側のやましさ全開、真っ黒な訳だ。それでも認めない、警察側の正義。

直接証拠もない、当時の資料もない。

動機も殺害方法も明かされない。

こんなにナイナイ尽くしにも関わらず、久間は死刑に処される。牧師さんには最後まで無罪を訴えたようだ。


事件の再検証


後半は、この事件を再検証していく。何故、当時警察側にばかり偏った報道となったのだろう。完全に「ペンを持ったおまわりさん」となっていた。そんなのジャーナリズムではない。警察側の話にも、矛盾があれば様々な角度から正義を突きつけるべきだし、容疑者側も時には過去や生い立ちを追うことで、その犯罪を起こすような人間性なのかを浮き彫りにさせる事が出来たであろう。それが本来のジャーナリズムだったのではないか。ここで非常に興味深いのは、先にも触れたDNA鑑定について。それをこれからの捜査の主軸にしていこうと謳っていたのが、元國松長官だ。ここに行き着くのも素晴らしいが、更には取材をしているのが痺れた。もちろん貴重な証言も引き出した。


真相は藪の中。


疑わしきは罰せずならば、久間さんは完全に無罪だ。しかし、何かの大きな力が働き彼はもうこの世にいない。再審請求もことごとく棄却。

正しい司法、正しいジャーナリズム、そしていつまでも弱いものの味方でいる警察。

それぞれが本当の正義を示せば、まだ久間さんは生きていたかもしれない。しかし結果から言えば、この事件は冤罪ではない。久間さんが犯人だと言うならば、誰が見てもそうとしか思えない証拠や検証をすべきだった。にも関わらず、雑な思い込みの捜査と言わざるを得ない結果。秀逸な題名に、しばし動けずエンドロールの黒い画面を睨んだ私なのでした。

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