「アステロイド・シティ」 虚構を楽しむウェス・アンダーソンの世界
本作の、そしてウェス・アンダーソンの映画のキーワードは、「虚構」。
映画はそもそも、虚構です。それは当たり前の大前提で、みんなわかってること。
どんなに本物らしくても、映画の中で起こっているのは作りごと。人は俳優が演じているし、背景はセットやロケーションだし、起こる出来事にはシナリオがあります。
でも、その一方で、私たちはそんな虚構に、現実と同じように心を動かされるものです。
登場人物がピンチに陥ればドキドキハラハラするし、別れのシーンでは涙が出ます。嬉しいシーンでは、一緒になって心が躍ります。
時にそれは、現実以上に私たちの心を動かすことがあります。
だから、映画の作り手は普通、いかに映画が本物らしく見えるかに気を配ります。
精巧なセットを作り、俳優は自然な演技をして。
特撮やCGを使って、現実には起こり得ないことも本当かのように見せる。
できる限り現実に近づけて、観客にそれが虚構であることを一時、忘れさせる。
それが、多くの映画の作り手が(ごく自然に、当たり前のように)心がけることです。
ウェス・アンダーソンはその当たり前を、最初に映画から取っ払ってしまいます。
自然さのカケラもない、シンメトリーの構図。
固定カメラ。所定の位置にカメラ目線で突っ立って、代わりばんこに喋る俳優。
感情を込めず、棒読みで話す演技。
更には、映画全体が「舞台劇の再現」で、なおかつそれが「舞台劇が演出家と脚本家と俳優によって作られるまでのメイキングのテレビ番組」の入れ子構造の中にある、という、最初から「虚構だよ」と大声で宣言しているような物語の基本設定。
映画が虚構であることを隠さない、むしろそれを前面に出していくというのが、多くの他の映画作家と違う、ウェス・アンダーソンならではの個性であろうと思います。
個性的すぎて、いったい何が狙いでそんなことを……という深い困惑に放り出されるのですが。
本作では、物語の意味がわからない! 登場人物の気持ちがわからない!と俳優たちが言い出すことで、この虚構の中に真に迫る感情が現れてくるんですよね。
また、ウェスの映画を観ていて思うのは……この虚構っぽさというのが、逆にある意味で現実の人生に近いんじゃないかということ。
現実の生活の中で、私たちは映画みたいに感情を高ぶらせたり、泣き叫んだり、怒って喚いたり、アクションを繰り広げたりする訳ではないから。
現実の中でこそ、誰もが何らかの役割を演じている。社会人とか、家族とか、職業人とか、大人とか、男性とか、女性とか。
また、現実こそ「どうしてこんなことになるのか、物語の意味はわからない」ものです。
そんなふうに考えると、ウェス・アンダーソンの虚構を尽くした作品世界の方がむしろ、現実の人生を上手く再現してるんじゃないか…なんてことも思えるのです。
前作「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」は、「フランスで発行されるアメリカの新聞の別冊である雑誌」の記事内容の再現と、その雑誌を発行する編集者の物語が入れ子構造になっているという、これまた虚構を強調した、またあらすじを説明しても絶対に一回では理解できない作品でした。
雑誌の記事ですからね。「出来事を客観的に報告する」という文法で描かれているし、そもそもすべては再現ドラマです。
その前の(アニメを除く)作品「グランド・ブダペスト・ホテル」も、全体が「本に書かれていること」という構造になっていて、語られるストーリーはあえて「再現」というフィルターがかけられています。
「犬ヶ島」は人形アニメなので、初めからすべてが作り込まれた虚構の世界で展開していきます。
ウェスの場合、人が演じる劇映画も、人形アニメーションとまったく変わらない方法論で作っている……とも言えます。
普通の映画の作り方とまったく違うのでとっつきにくいですが、それこそ普通の映画では得られない斬新な感覚が得られる映画たち。現代の映画作家の中でも、個性という点では飛び抜けた作り手だと思います。