ヒロシマ・反核をライフワークにした映画作家・新藤兼人
シリーズ『 オッペンハイマー 』の日本公開を待ちながら その7
新藤兼人は先の大戦では、32歳で海軍に召集されましたが、船には乗らず、陸上で雑役兵としてこきつかわていました。
19歳の上官の水兵に連日クズと罵倒され、軍人精神注入の名のもと直心棒でケツバットをされる日々。
畑をつぶして作られた練習用の飛行場を、飛行機がなくなったので本土決戦に備え、ふたたび畑にする作業。
宝塚で終戦時を迎えたが、接収され兵舎に改装されていた宝塚大劇場を元通りにする作業をして10月部隊は解散・除隊。
『陸に上った軍艦』
新藤兼人は1912年( 明治45年 )、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区)の豪農の家に生まれたが、世事にうとい父親が借金の連帯保証人になるなどして没落。
柔道6段で12歳年上の長兄は警察官となり尾道に赴任。
父と母と末っ子の兼人は唯一残った蔵に住み、警察官の兄の信用でのつけで米やみそを買うような貧苦の少年時代を過ごした。
8歳上の長姉はピクチャーブライドとして渡米。
5歳上の次姉は広島市内に出て看護婦になり自立。
『花は散れども』
除隊になった新藤兼人は兄と父らのいる尾道へ。
次姉は終戦時尾道の病院で婦長をしていたが、原爆投下の翌日広島入り、以後1週間死屍累々の地獄的な修羅場で救護活動を行っていた。
姉から惨状を聞いた新藤兼人は、数日後広島に迎い焼野原となった旧知の街を観ている。
翌1946年父死去。 次姉は自身ヒバクシャとなったが、アラフォーで広島で製材所に努める男性と遅い結婚をした。 助産婦を開業。
自宅の対岸の原爆長屋と呼ばれるバラック住宅地区( 法的には不法占拠 )に変わって赤ん坊を取り上げた。 貧困で金がないので謝礼は鶏1羽とか、卵10個とかだったらしい。
長姉はアメリカに渡って十数年後真珠湾攻撃。 トランク1つだけ許されてアリゾナの日系人強制収容所に4年間入れられた。
もと住んでいたサンディエゴに近い町に戻り、一からやりなおし5エーカーのヒナ菊畑を持つまでになった。
新藤とはずっと音信不通だったが、1951年文通を始め、1977年新藤が渡米した際に53年ぶりに再会する。
広島医師会が在米ヒバクシャを診察したいと長年厚生省を通じてアメリカ政府と交渉していましたが、「 診察はだめだが問診なら 」との条件つきで許可され、新藤が同行取材した機会を利用して半日だけのあわただしい再会。
カリフォルニアに広島でのヒバクシャが1000人ほどと推定されるが、名前がわかっていても問診を受けに来ない人も多くいた。 原爆症と分かれば解雇やいやがらせされるのを恐れてのこと。
この時に新藤兼人は、広島原爆投下の指揮官ポール・ティベッツに会いに行っています。
そのいきさつについては『 決戦攻撃命令 』の拙レビューに書きました。
『決戦攻撃命令』
ロキュータス名義のレビューはこちら
新藤兼人は尋常高等小学校を卒業後、16歳で親戚の自転車屋に住み込みで務めるがおもしろくなく家出。
兄の尾道の借家( となりは大林宣彦の生家。地元で江戸時代から代々続く医者の家)で職も定まらずニート生活。
『海辺の映画館-キネマの玉手箱』
『 盤獄の一生 』(監督・山中貞雄)を観て映画を志す。
22歳の時、京都の新興キネマの現像部の一番下っ端の肉体労働から撮影所の仕事を始め、1年ほどして京都撮影所が閉鎖、東京に移転することになり、美術監督の水谷浩の助手が京都に留まることにしたため、代わりの助手に新藤を紹介してくれ美術部に異動。
兄の紹介で自転車卸業( 作家・高橋源一郎の実家 )で瀬戸内海の離島をまわる営業販売とをして半年ほど懸命に働き、京都で就職活動するための資金を貯める。
警察つながりというだけの兄の細いツテで京都府警・太秦署の刑事を頼っていくが、撮影所に仕事の空きはすぐにはなく、近くに下宿を借りてひたすら待つだけ。
数か月後、ようやく新興キネマに空きがでるが、志望の助監督ではなく、現像部の一番下っ端の肉体労働で、1934年22歳の時ようやく映画界入り。
1年ほどして京都撮影所が閉鎖、東京に移転することになり、太秦署の刑事の弟が美術監督の水谷浩の助手をしていたが京都に留まることにしたため、代わりの助手に新藤を紹介してくれ美術部に異動。
東京でセットデザインの仕事をしながら、助監督志望だったのでシナリオを書き始める。
1941年『 元禄忠臣蔵 』の建築監督で京都に出向、
知己を得た監督の溝口健二に自作の脚本を見てもらうと、「 これはシナリオではありません、ストーリーです 」と酷評される。 有名なエピソードだが、ショックを受けて落ち込むものの、近代劇全集を全巻読破し、独学で構成を研究、戦後シナリオを量産することになる実力を身につけた。
まさにたたきあげの人です。
しかし戦時になり、情報局の統制がきびしくなって、撮影所は整理統合、スタッフも俳優も登録制、軍の意向による検閲で映画は自由に撮れなくなった。
戦意高揚に積極的な内田吐夢と満映( 理事長は『 ラストエンペラー 』で坂本龍一が演じた甘粕正彦 )ですすめた企画は難航、結局帰国。
溝口に酷評された時励ましてくれた最初の妻が肺結核で死亡。
最初の妻との日々を描いた監督デビュー作が『 愛妻物語 』
妻役はのちに公私にわたるパートナーとなる乙羽信子
結局一本も脚本が書けないまま赤紙。 同期の100名のうち90名は任務に就く前輸送船が沈没・死亡。
新藤は残りの10名に選ばれたので命拾いしたが、内地で雑役兵としてこき使われて終戦を迎えた。
参考
「 新藤兼人・原爆を撮る 」新藤兼人・著 ( 新日本出版社 )
「 新藤兼人伝~未完の日本映画史 」小野民樹・著( 白水社 )
「 どろんこ半生記 乙羽信子 」聞き書き・江森陽弘( 朝日新聞社 )