途中が胸糞『ハネムーン・キラーズ』
胸糞映画って言葉はいつ出来た?
映画系Youtuberのサムネイルを見ていると結構「胸糞映画BEST5」とか、「この胸糞映画がすごい」みたいな言葉をよく見かける。一体いつ頃から胸糞映画って言われだしたんだろう?単にバッドエンドとかのことを指すのではないみたい。映画自体が胸糞悪いのもあるけど、その中の毒親や陰湿ないじめの場面などが胸糞なのもある。
人類が猿に支配されたって、今や誰も胸糞悪いとは言わない。ハリウッドの大女優が顔のパック中にクリーニング屋のハンガーで養子を折檻しても、なにこの変な映画って思うかもしれないが、胸糞まで行かない。ベートーヴェン好きの不良少年によるウルトラ暴力を散々見せつけられても、胸糞悪いと言ってる人はあまり見かけない。
どうやら、そういうクラシックからではなく、2000年超えたあたりから、明確に「観客に嫌なもの見せてやろう」的な意図を持っていそうな監督と制作者達が送り出した作品を胸糞と呼んでるみたい。さらにそこから派生してクラシックや、そういう意図はなくても気分を害する描写を見つけるとそう呼びたくなるものみたい。
たぶんやり始めは80%以上の確信をもってラース・フォン・トリアーだと思う。続けてミヒャエル・ハネケとかがやり出した。ダーレン・アロノフスキーもそうかな。トリアーは最初の頃は『エレメント・オブ・クライム』は北欧版『ブレードランナー』なんて言われたり、『キングダム』は北欧版『ツイン・ピークス』なんて呼ばれたりしてたのに、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』あたりからおかしくなった。
日本でやり始めたのは絶対、野村芳太郎だと思う。炊飯器の中にいたずらした幼児を岩下志麻が折檻する場面は、近代日本胸糞映画史の最初の一頁を刻んだのである。
『ハネムーン・キラーズ』というタイトルを聞くと、なんだか怖いのかラブコメなのか、ジャンルが良くわからない気がしたものだ。これはマイク・マイヤーズの『ハネムーンは命がけ』とかトム・ハンクスの『レディ・キラーズ』のせいだと思う。
実のところ犯罪実録映画は、1967年の『冷血』、1968年の『絞殺魔』、1970年の本作、そして1971年の『10番街の殺人』と、毎年制作されている。まあ、この60年代終わりから70年代初頭にかけての作品といえば、『2001年宇宙の旅』とか『卒業』『サウンド・オブ・ミュージック』とかが明るい表通りの時代だから、こうした私好みの暗い犯罪映画は、じめじめした暗い裏通りを行く存在であった。私の映画人生暗かった。
2018年キングレコードさんが本作をDVDで復刻し、わたしは念願の試写に呼ばれた。
何にしろ噂にしか聞かない「幻の作品」に目がないので、久しぶりの外食にありついたわけだ。
『ハネムーン・キラーズ』の出だし
アラバマ州モービル市立病院の看護婦長を務めるマーサ(シャーリー・ストーラー、一度見たら忘れない)は独身で母親と二人暮らし。甘いものばかり食べて、外見は巨漢。冒頭、数分マーサを映像で紹介する場面だけで、この人物像が必要最小限に理解できてしまう。その体形、激高する口調。年は40を超えているだろう。自宅に帰ってすぐにお菓子を口にする。
私的看護婦役BEST3は、『カッコーの巣の上で』のルイーズ・フレッチャー、『ミザリー』のキャシー・ベイツ、そして『ハネムーン・キラーズ』のシャーリー・ストーラー。みんな怖い。フレッチャーが院長で、ストーラーが看護婦長、キャシー・ベイツが担当看護婦なんて病院に入院するくらいなら死んだ方がいい。
マーサは母親の友人から手紙を渡される。「文通クラブ 女性専用申込書」。何これ。こんなもの頼んでない。隣人で友達のバニー夫人がマーサを気にかけて勝手に頼んだものだった。
「幸運にも孤独な夜と決別した二人・・・これは偶然ではありません。当文通クラブの賜物です。交際相手に恵まれない貴女の孤独な夜が終わるかも」
この文通クラブ、字幕には出てこないが名前を「ロンリー・ハーツ・クラブ」という。
最初は大きなお世話だと反発するものの、失うものはないとマーサは申し込む。
この手紙は結婚詐欺師でスペイン系移民のレイ(トニー・ロー・ビアンコ、2024月6月11日、ついこの前前立腺がんで亡くなった)の元に届く。
かくして二人の文通は始まり、写真を送りあい、互いを称えあう。承認欲求を満たす甘く酔いしれるような「言葉」にマーサはのめり込む。(君の髪の毛を送って、というキモいくだりもあるが、昔は世界中でそんなことをやっていた)
二人の手紙のやりとりを短いカットでつなぐ鮮やかな手法。今どきの映画ならLINEのメッセージのやり取りといったところ。やがて二人はマーサの自宅で会う約束をする。
二人とマーサの母親はワインを楽しみ、レコードをかける。(レコードラックにはハーブ・アルパートとティファナ・ブラスのアルバム『ホイップド・クリーム&アザー・ディライツ』が立てかけてある。リリースは1965年、4枚目のアルバム。『蜜の味』『ビター・スウィート・サンバ』『ラブ・ポーションNo.9』初収録。わたしはこれを聞いて育った)
母親が邪魔なマーサは睡眠薬を飲ませ、眠らせる。看護婦長だからお手のものだ。
翌朝になって、マーサはレイとの別れが堪えられない。この時の二人の会話で、すでにレイはかなりの金をマーサから借りており、彼は「仕事」を終わらせる間際であることがわかる。
ある日マーサはレイからの手紙を受け取り(内容はわからない)、血相を変えてバニー夫人の部屋へ。バニーはマーサに言われるまま、レイに電話をかけ、マーサが自殺をほのめかしていると伝える。このあたりで手紙の内容がわかってくる。「自殺なんてしたらおおごとよ、警察沙汰になるわよ」マーサは電話を替わり、レイに(貴方と別れるなら)私は死んじゃう、今すぐ会いに来てと言って脅す。ところがレイは意外にもこう言う。
「ダーリン、そんなに言うなら君が僕のところへ来なよ」
結婚詐欺の被害者相手に、このような誘いはしない。レイもマーサに入れこんでいたことがわかる。マーサはレイのいるニューヨークへ。そして彼の部屋にあった数々の女性のポートレイトを手にする。これはいったい・・・。
「これが僕の正体だ。それでも僕を愛するのかい」
「もちろんよ」
レイは自ら結婚詐欺師であることを告白するが、マーサは受け入れる。二人は抱擁する。
こうしてアメリカ犯罪史上最悪のカップルが誕生する。
母を捨て、恋人の元へ
マーサは私物のロンリー・ハーツ・クラブの手紙を院長に見られ、咎められたことで喧嘩し、病院をやめる。
「亭主ができればあたしは見殺しね!」とののしる母親を捨て、マーサはロイの元へ。ロイはマーサに、母親だけは連れてくるなと言ったからだ。
この、軽く認知症が進行している母親との別れが序章のターニングポイントだ。母親の娘に対する依存と執着が短いショット、台詞で表現されている。最初泣き脅しをする母親が、娘が部屋を出ていくや否や「置いてかないで!」と懇願に変わる。次に母親は窓から叫ぶ。
「なんてひどい娘なんだい!あんたも捨てられるさ!捨てられちまえ!」
繊細な方はもうこのへんで胸やけがしてくる。
なんなんだ、この母娘は。
そしてこの場面の演出がまた鋭い。母の罵倒する声を背にマーサが出てゆく。
凡庸な演出家は女優に「怒った表情で」と演出をつける。
「マーサは苛立って怒った表情で、足を踏み鳴らしながら歩いていく」
こりゃだめだね。平凡。
まだましな演出家は「一度立ち止まれ」と注文をつける。
「マーサは苛立って怒った表情で歩いていく。一度立ち止まる。しかし、一息してまた歩き出す」
心情がわかる気もするが。
レナード・カッスル監督がつけたシャーリー・ストーラーへの演出はこうだ。
「マーサはゆっくりと無表情で、立ち止まることも振り返ることもなく歩いてゆく。無表情のまま涙を一筋こぼす」
母親を捨てるという行為は、息子が父親を殺す通過儀礼と同じ。マーサは完全に自立し、解き放たれる。これまでのマーサの人生は母親の存在によって、暴走を制御されていたようなもの。
今からマーサの人生を決めるのは、マーサ自身になる。この涙は母親との別れを惜しみ、悲しむものでは決してない。
殺人新婚旅行へ出発
最初のターゲットとなるのはオールドミスの教師ドリス。マーサはロイの姉、または妹を名乗り、どこにでもついていく。3人は車に乗って新婚旅行へ。
ところが詐欺も盗みもド素人のマーサは下手をする。
モーテルについた日の夜にマーサはドリスの金品を盗みだし、次の日の朝すぐにバレてしまう。ドリスは全部返せと激高する。マーサはとぼける。二人は大声で罵り合う。
「あんたの熱烈な手紙を校長に見せてやる!教師にしちゃ大胆な事書くわね!PTAが騒ぐわよ!」
ドリスは激怒して出ていく。やれやれ。
ところで、ロイとマーサは殺しや盗みを終えるたびに愛し合う姿が繰り返し描かれる。事実によれば二人は異常性欲者だったようだ。特にロイは相手を選ばず、二人は犯罪後に激しく欲情する。このことも二人の異常性を物語っている。
次がバツイチのミセス、マートル。前の亭主の子を妊娠している。親の遺産相続を控えていた。この遺産を狙うロイは、出産の手伝いをする名目でマーサを連れてマートルの自宅へゆく。
今度はロイの言いつけを守り、何も盗らなかった。だがその夜マーサはマートルがロイに甘えるところを盗み見し、嫉妬心が燃え上がる。部屋に戻ったマートルはマーサと狭いベッドで横になる。
「クスリないの?」「睡眠薬ならあるわよ」「クソ真面目な女ね」
二人の間で言い争いが始まり、また罵り合う。マーサはバカにされ屈辱的な言葉をかけられる。マートルは激怒してロイの部屋へ。しばらくするとロイがマーサのところにやってくる。
「彼女に何を言ったんだ!たった4000ドルのためにどうしてこんな苦労しなくちゃならないんだ!」
凄まじいマーサの嫉妬心は、どんどん膨れ上がっていく。
「彼女にこれを。クスリがあるって渡して」とマーサはロイに錠剤を渡す。
翌朝意識が朦朧としているマートルを一人バスに乗せるロイ。「私すごく気分が悪い、、あのクスリのせいだわ、私どうなっちゃうの、死んじゃいそう」と弱々しい声を出すマートル。両親に迎えに来てもらうから心配いらない、とロイがなだめて送り出す。
到着地で運転手が座席にうずくまっているマートルに声をかける。抱き起すと彼女はすでに絶命していた。
こうして二人は結婚詐欺と殺人を重ねていく。
途中最も胸糞悪いシークエンス
マーサの嫉妬心は暴走し、詐欺相手の前で入水自殺騒ぎを起こす。騙す女が若いと嫉妬心を抑制できない。
次の標的、初老の婦人ジャネットはマーサ自身が選んだ。初老の女なら嫉妬も抑えられる。ロイは「チャールズ・マーティン」と偽名を使い、彼女の1万ドルの資産を狙う。手芸が得意なところに二人は目をつけ、手芸店の開業資金と偽り、言葉巧みに小切手にサインさせる。
しかし夜になってジャネットは不安になる。冷静に考えると自分は「チャールズ」のことをよく知らない。そんな人に大金を預けて大丈夫だろうか。
ジャネットは娘夫婦に電話すると言い出す。マーサははぐらかそうとするが聞かない。ジャネットはロイのところへ行き、話をかけさせてと嘆願する。無言のロイ。
「どうする、ロイ」
マーサの言葉にジャネットは一層不安が募る。「ロイ?ロイって・・?チャールズ?」
態度が豹変した二人を見て恐怖を感じたジャネットは怯えながら逃げ出そうとする。
「小切手もいらない、電話もしないから!」
マーサの手にはハンマー。それをロイに差し出すが、彼はこう返す。
「愛しているなら、お前がやれ」
ここからの殺人場面は、この時代にしてはかなりリアルで思わず力が入ってしまう。
公開当時、こうした殺人シーンがリアルすぎるために抗議の声が上がったのだろうか、上映期間は非常に短いものだったという。
最も胸糞悪くなるのは、この後に続く未亡人デルフィン。連れ子の2歳の娘がいる。当然のことながら娘はマーサに懐かないし、マーサも大嫌い。デルフィン母娘は非常に健康的な生活を送っており、家の中も清潔で、食事にも気を配られている。マーサはそれも気に入らない。
ある日デルフィンは娘の幼稚園を休ませて、マーサと二人っきりで話がしたいと言う。
「ニューヨークへ行く前に、今すぐ結婚したいの」
「どうして急ぐの?」
「妊娠したの」
この言葉にしばらく抑えられていたマーサの嫉妬心が急激に沸き立ち始め、沸点に到達する。
指一本触れてないから安心しろとロイはマーサに言っていた。あれは嘘だったのか。
書けるのはここまで。
二人が逮捕されるいきさつは、事実とは異なる。しかし映画としての終わり方は、悪のヒロイン、マーサの人生の締めくくらせ方としてよかったと思う。
「人の心」を持たない人間は、この世で最も恐ろしく、おぞましい。
当初新人のマーティン・スコセッシが監督に抜擢されたそうだが早々に降板し、カッスルが後を引き受けたと伝わっている。
生涯に本作1本しか監督しなかったレナード・カッスルはなぜこの題材を選んだのだろう。
それを知るヒントは、アメリカン・ニューシネマの嚆矢となった、1967年の『俺たちに明日はない』について、カッスルの語ったという一文にあると思う。(IMDBより引用)
I was revolted by that movie. I didn't want to show beautiful shots of beautiful people.
「私にはあの映画が不快に思えた。私は美しい人(の死)を美しく見せたいと思わない」
これはボニーとクライドがクライマックスで銃撃を受ける、いわゆる「死のバレエ」を批判したものだと思われる。
ボニーとクライドは実在した銀行強盗のカップルで、犯罪を繰り返しながら逃避行を続ける。
主演はウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイ。ハンサムな男とモデルのような美しい女。
ここにヒントを得たのだろうか。カッスルはその真逆を行った。
主演は禿げた移民の男と、巨漢の中年女。同じように犯罪を繰り返すが、人が死ぬ場面は、目をそむけたくなるようなリアリティがあり、カッスルの狙い通り美しくは描かれていない。
世界一優秀なDVDメーカー、クライテリオン社が復刻した『ハネムーン・キラーズ』の4Kリマスター版ブルーレイの特典には、2003年に行われたレナード・カッスルや、ロイ役のトニー・ロー・ビアンコのインタビューなどが収録されている。
もし私が再び本作を復刻する機会を得れば、クライテリオンのライセンスを受けて(たぶん本篇分くらい高いこと言われそう)このインタビューを日本盤に入れたい。そして真っ先に観てみたいと思っている。
ミュートしたユーザーの投稿です。
投稿を表示まず、「胸糞映画」という言葉自体はわりと最近、2010年代以降、TwitterやFacebook等のSNSの完全定着期から使われるようになった言葉だと思われます。
なぜなら、ラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』やミヒャエル・ハネケの『隠された記憶』辺りが公開された2000年代半ばでは聴いたことがなかった言葉です。
ですが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をはじめ、ミヒャエル・ハネケの『ファニーゲーム』や『ピアニスト』、中国映画『鬼が来た!』など、いわゆる後に「胸糞映画」の代表作と呼ばれる作品が揃ってきたのは1990年代後半からゼロ年代にかけてですね。
さて、ではその1990年代以前の胸糞映画に関しては諸説あるかと思いますが、
明確に観客に人間の黒い部分を見せようとした作品としては、
1960〜61年にシリーズ化された松本清張原作の『黒い画集』三部作である、
と私は考えてます。
まぁ、野村芳太郎監督も松本清張原作の作品をいくつか手掛けてますから、意外にも松本清張原作作品を追うと見えてくるものがあるかと思います。
洋画に関しては
1990年代以前ならパゾリーニの歴史的超傑作『ソドムの市』で間違いないでしょう。
あとはトランボの『ジョニーは戦場に行った』あたりもこの手では長年語られる映画ですね。
ボクもまだまだ研究中です。
ミュートしたユーザーの投稿です。
投稿を表示