ゴダール 『 軽蔑 』 と ベルトルッチ『 ラストタンゴ・イン・パリ 』 ( 前 )
『 軽蔑 』 ( 1963年 監督 ジャン=リュック・ゴダール )
『 ラストタンゴ・イン・パリ 』 ( 1972年 監督 ベルナルド・ベルトルッチ )
すでにロキュータス名義のレビューで何度も書いていることなので恐縮ですが、この2作品を対比してみるとなかなか興味深い。
『 ラストタンゴ・イン・パリ (以下『ラストタンゴ』と省略) 』は『 軽蔑 』を意識し、踏まえて撮られているとぼくは考えています。
ですが、ぼく以外にそんなこと言ってる人は知らないので、ひとつの個人的見解として読んでください。
( 両作品比較して述べますので、ネタバレしてます。 ご注意ください。 )
『 ラストタンゴ 』はアパートの部屋を探しに来たジャンヌ(マリア・シュナイダー)が出会った男と、そのアパートの1室を「 仮想空間 」にして、男に言われるままお互い名前も素性も知らないままセックスする関係を持つという話。
その過激な性表現がセンセーショナルでした。
ただ映画はその男( マーロン・ブランド )のバックグラウンド、「 現実世界 」での姿も描きます。
両作品とも、昨日まで愛し合っていると思っていたが女に急に愛想を尽かされ拒絶される( 最近よく言われる「 蛙化現象 」だな )が、それがなぜだかわからない男の話。
『 軽蔑 』も『 ラストタンゴ 』もその男の名はポール。
『 軽蔑 』は男( ミシェル・ピコリ )が愛する妻( ブリジット・バルドー )を亡くすまでを描く。
『 ラストタンゴ 』は男が愛する妻を亡くした後を描く。
遺された男たちには亡くした妻の心変わりが謎のままなので苦悩する。
『 軽蔑 』はフランス人の監督がイタリアで撮った作品。
『 ラストタンゴ 』はイタリア人の監督がフランスで撮った作品。
『 軽蔑 』は太陽が燦燦と照らす島の海辺の風景、衣装やセットが原色で色鮮やか、その明るさが逆に失われる愛をせつなく寂寞と感じさせる描写。
撮影はラウール・クタール( 『 勝手にしやがれ 』『 突然炎のごとく 』など。


『 ラストタンゴ 』はパリの都会的な風景を、深い陰影で描写、その暗さと濁りの輝きが、登場人物の鬱屈した閉塞感を感じさせる。
撮影はヴィットリオ・ストラーロ ( 『 地獄の黙示録 』『 ラスト・エンペラー 』など。

『 軽蔑 』の原作はアルベルト・モラヴィア。(1907 ~1990 )
実存主義を代表するイタリアの作家。 第二次世界大戦中はファシスト政権から、戦後はローマ教皇庁から禁書処分を受けている (1952年~1963年 )
ノーベル文学賞確実と候補としてずっと名前が挙がっていたが、結局受賞はなかった。
ベルトルッチは、詩人である父とも、師あるパゾリーニとも親しかったモラヴィアとは旧知の仲。
そして『 ラストタンゴ 』の前作『 暗殺の森 』( 1970年 )の原作はモラヴィアの小説「 順応主義者 」。
この映画は父親( 伝統や権威 )殺しの映画ですが、中でも「 ゴダール殺しの映画 」という説は、林冬子氏の映画評論で知りました。
同作で殺される教授の電話番号はゴダールのもの。
教授の妻( ドミニク・サンダ )の名はアンナ。 『 軽蔑 』を撮った当時ゴダールの妻はアンナ・カリーナで、不和だった関係( 翌年1963年離婚 )が作品に投影されているとされます。
そして教授のことをカジモド(「 ノートルダム・ド・パリ 」の主人公 )とか「 どうせインポのインテリ 」と呼び、教授と主人公( ジャン・ルイ・トランティニアン)が話をする窓のガラスにはコメディアンのローレルとハーディの写真。 イジってますよね。
『 暗殺の森 』の公開初日の深夜、ベルトルッチはゴダールから呼び出された。
待ち合わせのドラッグ・ストアに現れたゴダールは一言も言わずに紙切れを渡して夜の闇の中に消えた。
そこには毛沢東の肖像が印刷され、赤ペンで「利己主義と帝国主義に対して闘いを行わなければならない」と書かれていた。 ベルトルッチはそれをずたずたに引き裂いた・・・「ベルトルッチ、クライマックスシーン」(筑摩書房)から要約。
監督になった当時ベルトルッチはゴダールを賞賛し、師として接していたようですが、いつしか互いに確執を抱く間柄になったんですね。
( 後編に続く )
