東宝俳優録2 土屋嘉男
今回は前回、名前の出た土屋嘉男である。文字通り、黒澤明に見いだされた役者である。
土屋嘉男は27年山梨県の生まれ。小学生の時から釣りが好きで、そこである「親父」と知り合う。その親父のうちへ遊びにいくと、一人胡散臭い男がゴロゴロしていたという。親父は「この男の名前は太宰だ」と紹介した。その男こそ当時は戦時疎開で甲府に在住した太宰治で、親父の正体はその師匠である井伏鱒二だったという。正体を知るのに大分時間がかかったらしいが、土屋は少年時代に太宰や井伏と交友があったわけである。
医師になるため旧制山梨医学専門学校に入学するが、真剣に医者になりたいとは思っていなかった土屋に太宰が「君は医者になるより、俳優になったほうがいいよ」と言われたことも俳優を目指すきっかけの一つになったという。
49年に学校を卒業した後、50年に俳優座養成所2期生に合格して上京する。戦後は三鷹に住んでいたという太宰は、すっかり痩せこけて元気を無くしている状態で「俳優座の研究生になりました」と報告できる状態ではなかったという。まもなく太宰は入水自殺したというのだが、自殺は48年の話なので土屋の話とはタイムテーブルがずれていたりする。自殺前の姿を見たというのは本当だろうが。
とにかく俳優座の研究生となった土屋だが「七人の侍」(54年)がデビュー作と言われるが、正確には「私はシベリヤの捕虜だった」(52年)が映画初出演作である。丹波哲郎のデビュー作である「殺人容疑者」(52年)にも顔を出している。
53年、「七人の侍」という映画の重要な役のオーディションのため黒澤明が俳優座にやってくるので参加希望者は待機せよとの知らせが入った。土屋は黒澤映画の大ファンではあったが、「私ではダメだ」とでも思ったか、オーディションは受けず近くのパチンコ屋にいったという。
ここからは割合有名なエピソードと思われるが、オーディションも終わった頃かと思い劇団に戻って、トイレで用を足していると一人の背の高い男が入ってきて、土屋の隣で用を足し始めた。眼があってしまい、思わずそらしたという土屋だったが、「ひよっとしてこの人…」という彼の予感は当たっていたのである。それが黒澤明との出会いだったのだ。
その後、その重要な役は中々決まらないまま、土屋は劇団員に採用された。同期の研究生は60人余りいて、採用されたのは土屋を含めて4人だけだったらしい。研究生最後のパーティの途中に電話があり「黒澤明が土屋君に会いたいから、東宝撮影所に来てくれ」というものであった。

「黒澤組」と書かれたスタッフルームを探し当て、ドアを開けると、「トイレの男」がいたのである。「あなたが黒澤明ですか」と土屋は思わず呼び捨てで言ってしまったというが、「そうです、トイレで会った黒澤です」と優しく返してくれた。
こうして、百姓・利吉の役に土屋が採用されることになったのだが、土屋がオーディションに参加していたらどうだったかは不明だが、参加しなかったことが功を奏したといえよう。
そんな土屋がある日、演技課長に自分で作ったスケジュール表を提出した。彼は登山が趣味であり、それはこの日から十日間は山に行くから休むというようなものであった。すぐに黒澤の耳にも入り、「困るんだよ、そいいうことを自分勝手に決めちゃあ」と叱ったのである。それから数日して黒澤は土屋に提案した。「俺の家に来ないか、よければずーっといろよ。旨いもの食わしてやるから」と誘うのである。躊躇する土屋だったが、黒澤は「お前さんは放っといたらどこかへ行ってしまいそうで気が気じゃない」と説得され、土屋の黒澤家への居候が決まったのである。こうして、彼は天下の黒澤家に下宿した俳優第一号(第二号がいたかは知らない)となったのである。
黒澤家に厄介になることになった土屋嘉男だったが、「七人の侍」の撮影中には高堂国典(村の長老役)からは、「養子に来ないか」と誘われたり、ほとんど他人とは接さない左卜全からもよく話しかけられたという。卜全によれば「西式健康法をやっており、その西さんを私は一番尊敬している。西さんは元は甲州は土屋家の人なので、あんたとは血がつながっていると思う」から、土屋とはちゃんとした付き合いをしているのだそうだ。
「七人の侍」の撮影が終わっても、土屋は黒澤家に厄介になっていたが、次作である「生きものの記録」(55年)の撮影が始まる前に、彼は黒澤家を出た。その後もよく訪れはしたというが、通算すると約1年半の間、黒澤家に居候したことになる。
「木下(恵介)君に君を預けようとかなと思ったけど、やっぱり東宝に入れよ」と黒澤に勧められ、土屋はせっかく入った俳優座を退団し、東宝と契約を結ぶことになったのである。
土屋嘉男といえば、黒澤映画だけではなく東宝特撮の顔でもある。これも有名なエピソードだと思うが、「七人の侍」の撮影が終わりに近づいたころ土屋は「ゴジラ」なる作品の噂を耳にする。元々SF好きだった彼は、そっと黒澤組を抜け出し、ゴジラの撮影現場へ見学に行っていたのである。特撮の方の監督はレジェンド円谷英二。当時は特撮現場に足を運ぶ俳優などいなかったので、円谷は喜んでくれたという。土屋がステージに来るのを待ってくれたりして、破壊シーンを生で見ることが出来たという。円谷とはSFについて語り合う仲になったそうだ。
「ゴジラ」本編の監督といえば本多猪四郎。子どもの頃、怪獣映画を見に行くと必ずこの名前を見たイメージがある。黒澤と同じ山本嘉次郎組の出身ということもあり、二人は大変仲が良い。黒澤が「イノさんの映画なら出てもいいよ」と言うので、土屋は東宝特撮にもよく顔を出すことになったのである。土屋で特撮といえば、何となく科学者とか博士のようなイメージがあるが、本人はあまりマトモな役をやりたがらない。

「地球防衛軍」(57年)では、自分から希望して顔の見えないミステリアン(宇宙人)の役をやっている。その「宇宙語」も土屋が自分で考案したものである。

「ガス人間第一号」(58年)では、そのガス人間を演じている。「透明人間」(54年)に出演した際、透明人間を演じる河津清三郎が羨ましかったそうで、ずっとそういう役をやりたいと思っていたという。
カナダのロッキー山脈にいった際、たまたま村の映画館で「ガス人間」を上映しており、土屋は街の人に大歓迎されたという。ホテルはタダになり、御馳走まで振る舞われたといい、まさにVIP待遇である。シカゴでも道行く人が土屋を見ると、ミステリアンの手の動作をしたという。アメリカのTVでは、東宝の特撮映画を繰り返して放送していたようで、現地の人は土屋の顔がすぐにわかったようなのである。
そんな土屋嘉男は70年に東宝を退社。以降はフリーとしてTVや映画で活躍した。しかし、2017年9月その死亡が発表された。実は2月に亡くなっており、7カ月たってからの発表で、89歳であった。