日活俳優録2 岡田真澄/フランキー堺
ニューフェイスや他社からの移籍以外にもスカウトで日活に入ってきた者も勿論いる。
日活の名プロデューサーの一人に水の江瀧子がいる。オールドファンなら、戦前より松竹歌劇団でターキーの愛称で親しまれた「男装の麗人」のことは知っているだろう。個人的には萩本欽一が司会をしていた「オールスター家族対抗歌合戦」(72~86年)の審査員の一人であるすらっとした婆ちゃん、として知ったのが最初だったと思う。
かつて「男装の麗人」だったというのは何となく子供のころから知っていたが、日活のプロデューサーという一面を知ったのは随分後の話である。一緒に審査員をしていた近江俊郎の映画監督としての一面を知ったのもずっと後のことだ。

その彼女がプロデューサーとして日活にスカウトした俳優の第一号が岡田真澄であった。
岡田真澄は35年生まれ。日本人画家岡田稔とデンマーク人の翻訳家インゲボルグ・シーヴァルセンの間に、フランスのニースで誕生した。39年に日本に移住し、戦後まもなく兄であるE.H.エリックがトニー谷のスカウトで芸能界入り。日劇ミュージックホールの舞台に立つようになり、岡田も座長格だった泉和助の元で修業したりしていた。53年に岡田は第6期東宝ニューフェイスに合格している。同期には宝田明、佐原健二、藤木悠、河内桃子などがいた。
ここから日活入りするまでの経緯が今一つ、はっきりしなかったが、どうやら東宝では映画デビューができなかったということのようだ。同期だった宝田や河内が「ゴジラ」(54年)でデビューを飾り、佐原や藤木も活躍し始める中、まだ20歳前のハーフの美形を使う場所がなかったのかもしれない。
一方の水の江も入社して約9か月の間、仕事らしい仕事は何一つしていなかったという。そんな、水の江が日劇ミュージックホールの前を通りかかると、看板に美少年を見つけた。それが、岡田真澄であった。岡田は「古巣」の舞台に立っていたのである。水の江はすぐに岡田に「あなた映画に出ない?」声をかけると、彼は二つ返事で「出ます」と答えた。後に岡田は「東宝に見放されて日活に誘われたんですから、飛び上がらんばかりに嬉しかったですよ」と語っている。

こうして岡田は「初恋カナリヤ娘」(55年)でデビューを飾ったのである。本作ではシティ・スリッカーズのドラマーだったフランキー堺も水の江のスカウトで専属契約を結んでいる。水の江曰く「美少年の岡田の隣にいたら面白そうだった」からだそうである。また、ノンクレジットだが植木等(当時はシティ・スリッカーズ在籍)がマラカスを持って踊っているらしい。

日活では浅丘ルリ子がデビューした「緑はるかに」(55年)や石原裕次郎、津川雅彦をスターダムにのし上げた「狂った果実」(56年)など50本ほどに助演し、59年には退社している。60年代にはかつて「見捨てられた」東宝の映画にも数本出演している。
06年に70歳で亡くなったが、葬儀で弔辞を読んだのが宝田明であった。この時に岡田が実は東宝ニューフェイス出身だったことを知った人も多かったかもしれない。

フランキー堺は29年生まれで、本名は堺正俊という。鹿児島生まれだが、小学校の時に東京に転居し、麻布中学を経て、46年に慶応義塾大学に入学した。中学時代の同級生に小沢昭一や加藤武がいる。
大学生の頃からドラムに凝りだし、あっという間に上達し、49年にマニラボーイズ楽団、50年に多忠修とゲイスターズ楽団にドラマーとして参加し、進駐軍のベースキャンプ巡りなどをしていた。51年に慶大を卒業し、52年には与田輝男、秋吉敏子らとシックスレモンズを結成した。

その日本人離れしたマスクやショーマンシップは映画界にも注目され、松竹の「岸壁」(53年)、新東宝の「名探偵アジャパー氏」(53年)にシックスレモンズと共にドラマーとして出演した。続く新東宝の「青春ジャズ娘」(53年)では、安西郷子を相手役に台詞も演技もある俳優として準主演を果たしている。
翌54年にはフランキー堺とシティ・スリッカーズを結成し、バンドマスターとして活動しながら、ジャズ映画や喜劇などに顔を出すようになっていた。シティ・スリッカーズには植木等、谷啓、桜井センリ、稲垣次郎らが在籍し、後にハナ肇とクレージーキャッツのメンバーとなる面々が集まっていた。そのハナ肇もバンドボーイのような立場で出入りしていたらしい。
55年に日活の「初恋カナリヤ娘」に出演したことをきっかけに、日活と専属契約を結んだ。シティスリッカーズは脱退することになるが、バンド自体はフランキーなしでもその後3年程続いていたようだ。ハナ肇は「フランキーは日活に行ってからバンドのことはほったらかしで自分のことばかり考えるようになった」と批判していたらしい。


日活では「猿飛佐助」(55年)で、主人公の佐助に扮して初主演。この時、三好晴海入道役の市村俊幸と初コンビを組んでいる。翌56年も「東京バカ踊り」では、役者として出演した水の江瀧子と共演。「ドラムと恋と夢」「デンスケの宣伝狂」「牛乳屋フランキー」などに主演して、日活喜劇路線の看板スターとして活躍した。
また、テレビではこの56年に「わが輩ははなばな氏」という生放送ドラマがスタート。出演はフランキーと堺花子、堺俊哉という実のフランキー一家であった。妻の堺花子は日劇ダンシングチームの出身で芸名は谷さゆりであった。渥美清や谷幹一がゲスト出演し、番組は59年まで続いている。

さて、フランキーの日活作品で最も名高いのは川島雄三監督の「幕末太陽傳」(57年)であろう。石原裕次郎などを脇に回して、フランキーが主役をはった。映画自体の評価は高かったが、川島と日活首脳部との軋轢を多く生んだ。裕次郎を脇に回してフランキーを主役にしたことも首脳部には不満だったのである。結局、川島はこの後東宝系の東京映画へ移籍する。
フランキーも川島の後を追うように「殴り込み落下傘部隊」(58年)を最後に日活を離れ、東京映画と本数契約を結んでいる。