東宝俳優録3 加東大介
「七人の侍」繋がりで、今回は加東大介である。
加東大介は、1911年生まれで本名は加藤徳之助といい、兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子という俳優兄弟である。ちなみに国太郎の息子は長門裕之、津川雅彦なので、加東は彼らの叔父にあたるわけである。
父親の伝太郎は役者ではなく、宮戸座の座付き作家で竹柴伝蔵といった。そんな関係で自分の子供は歌舞伎役者にすると決めており、兄の国太郎に続いて、加東も歌舞伎の世界に入っている。歌舞伎には詳しくないが、あんな丸々とした歌舞伎役者ってあまり見たことがない。33年に前進座に入り、市川莚司を名乗るようになる。同年、「段七しぐれ」で映画デビューしている。以降は、「河内山宋俊」(36年)や「人情紙風船」(37年)、「阿部一族」(39年)に出演する。

43年、陸軍に衛生伍長として応召されニューギニアへ送られる。そこでは、兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられたという。後にこの時の体験をつづったものが「南の島に雪が降る」である。46年に復員するが、左傾してしまった前進座に嫌気がさし退団し、兄の国太郎や姉の貞子と神技座を結成して巡業するがうまくいかず映画界入りを決意する。
48年、姉の貞子と共に大映京都し、阪妻主演の「木曾の天狗」を第一回作品とする。次の「五人の目撃者」(48年)が現代劇だったため歌舞伎俳優くさい市川莚司を辞め、本名を生かした加東大介に改めた。

50年、黒澤明監督の「羅生門」に八人しかいない出演者の一人に選ばれ注目されるようになり、翌51年には東宝に移籍する。
加東は黒澤作品には「羅生門」の他は、「生きる」(52年)、「七人の侍」(54年)、「用心棒」(61年)に出演し、常連のようなイメージだが、実はこの4作にしか出演していない。しかも「羅生門」や「生きる」では脇役なので、大役は「七人の侍」と「用心棒」だけだといえるのだが、もっと沢山の作品に出演しているイメージが不思議とあったりする。とにかく、東宝では多くの作品に出演しており、スケジュールのとられそうな黒澤作品には物理的にも参加できなかったのかもしれない。

基本的には助演の人だったが、「大番シリーズ」(57~58年)の4作品では主演のギューちゃんこと赤羽丑之助役に抜擢される。このギューちゃんというあだ名はいつしか加東自身のあだ名に定着している。シリーズの合間に作られた「一本刀土俵入」(57年)でも、主役の駒形茂兵衛を演じている。

また東宝の看板でもあるサラリーマンものでも「サラリーマン出世太閤記シリーズ」(57~60年)の全5作や「新・三等重役シリーズ」(59~60年)の全4作、30作を超える「社長シリーズ」(56~70年)のほぼ全作に顔を出している。

75年結腸ガンで入院するが、本人はガンであることを知らずに病院からスタジオに通っていた。75年7月に64歳で亡くなった。遺作は倉本総脚本のドラマ「六羽のかもめ」であった。共演は大番シリーズでその相手役だった淡島千景や甥である長門裕之、「七人の侍」で久蔵を演じた宮口精二もゲスト出演している。