日本で最も奏された交響曲~第九と日本人の関係を描く"愛しみの三章”
皆さんこんにちは
椿です
ちょっと「侍タイ」フィーバーに揺られてしまい、すっかり今月のお題投稿を忘れている私でございます。(えっ!?いつものことじゃん!という野暮なツッコミは無しよっ♡)
さて、今月のお題ですが、これについて挑戦したいと思います
『私のオススメ 音楽映画』
もうすでに、多くのシネマニストさんから様々なオススメ作品が紹介されておりますが、不肖椿も上げさせていただきます。
その作品は、とある交響曲に関する映画です。
はい。その曲は
・(おそらく)日本で一番演奏されてる交響曲
・(おそらく)日本で一番愛されている交響曲
・(確実に)日本で一番歌唱人口の多い交響曲
今年、初演から200年を迎える記念イヤーであるその曲とは
ベートーヴェン作曲 交響曲第九番ハ短調作品125『合唱付き』
でございます。
う~ん、なんか、この見出し、以前に書いたような記憶があると思ったら一度記事化しておりました(;^_^A
世界の人々はきょうだいとなる~ベートーヴェン第九交響曲初演200年記念の日に問う平和とは~『クレッシェンド 音楽の架け橋』
第九の世界的位置などについては上記コラムにお目を通していただけますと幸いです。(タイトルクリックでコラムに飛びます)
さて、そんな第九交響曲でございますが、皆さんもご存知の事と思いますが、日本ではなぜか年末に全国津々浦々で演奏されております。
はて、では、なんで異国ドイツで200年も前に生まれたベートーヴェンの交響曲が、遠く、東洋の国 日本にてこんなに演奏されることになったのでしょうか?
そんな謎を紐解く鍵が、実は邦画の中に描かれております。
今日は、そんな邦画を3本、ご紹介したいと思います。
1章 『バルトの楽園(2006)』~第九の日本初演までのドラマ~
【あらすじ】
第一次世界大戦下、中国青島に展開していたドイツ軍は、参戦した大日本帝国軍により壊滅。徳島は鳴門の板東俘虜収容所に隔離される。この収容所の松江所長は会津藩の出身であり国のために戦ったが破れてしまった敗戦の兵たちの気持ちを深く理解しており、ほかの陸軍上層部の不満をよそに、捕虜を人道的に扱う。すると、そこに文化的な生活が生まれ、鳴門の民との交流が生まれる。やがて、ドイツは降伏。悲しみに暮れるドイツ兵だが、母国に帰国される日が近づくと、収容所や町民への謝意を込め、ベートーヴェンの「第九交響曲」を演奏することを計画する
そうなんです。
この作品、ベートーヴェンの第九の日本初演を描いた作品なのです。
第九の日本初演は1918年6月1日。鳴門の板東俘虜収容所に収容されていたドイツ軍捕虜によって行われたのです。西欧列強の仲間入りを果たそうとしていた日本、とはいっても、徳島のような田舎に(失礼!)、まして、捕虜を収容するような場所に西洋の音楽を奏でる楽器などある訳も無く、収容されている捕虜で形成されている楽団なので、「混声合唱」が必要なのに女声が居ない・・・。
ではどうやって演奏したのかと言えば、足りない楽器はオルガン等で代用し、女声の独唱や合唱は、男声用に編曲して演奏されました。
映画での演奏模様も史実のとおり、足りない楽器は別楽器で補い、歌い手はすべて男声によって再現されています。
会津藩士の子として生まれた松江は戊辰戦争後、全面雪に囲まれた干拓地とは名ばかりのひどい荒地へ追放。そこで、父親とともに、生きるためには木の根も喰らう程の生活を送ります。そこで、どんなに苦難に苛まれようとも、不平不満をもらしたり、人を恨んだり蔑んだりしない精神が培われてちゆくのです。戦場では敵であっても、一人一人は国のために戦っている名誉ある戦人であり、尊厳をもった人間である。という松江の人間観は、まさに「第九」で歌われている精神世界と深く重なっています。
ドイツ捕虜と鳴門の町民たちは松江の発案のお陰で解放された収容所の中や、町内を散歩させたり、山の開拓に向かわせる中で、触れ合う機会が多くなりに人間同士の交流が深まってゆきます。ドイツ兵といっても、その多くは職業軍人ではなく招集されて参加した教師や音楽家、工芸職人、パン職人等の一般人。交流する中で、ドイツ兵からパンや工芸の作り方、音楽や体操の教室などが開かれ、鳴門の人達は彼らに料理や伝統的な遊び(折り鶴など)を教えあい、お互いの文化を学んでゆくのです。
ドイツが降伏し、日本中が勝利に沸き立ち、どんちゃん騒ぎをしていた時も鳴門の人々はドイツ兵の悲しみを理解し、町は静まり返っていました。
本作では、ドイツの司令官ハインリヒ総督よりも、一般のドイツ兵にスポットが当たっているので、名優ブルーノ・ガンツが配されている割にはあまり活躍の場が無いのが残念ですが、それでもやはり、松平健と対峙する場面では、日独の名優が台詞のない無言の場面でも反目したり、理解しあおうとする気持ちの葛藤が伝わってきて、芝居の妙味を味わうことができます。
ハインリヒ総督が松江のナマズのようなひげを見て「おかしなひげだ。剃ればよいのに」と指摘し、松江が断るシーンが妙に印象に残っていまして、ちょっとした目くばせで、お互いのプライドを表出した名場面でした。
タイトルの「バルト(Bart)」はドイツ語で「ひげ」のこと。たしかに、日本兵もドイツ兵もひげを蓄えているのが目立ちます。特に松江のナマズひげとハインリヒの、ビスマルクなどを連想させるような勇猛なひげは印象に残ります。それは男たちのプライドでもあったのでしょうね。
第九が演奏される中、心打たれた松江は、立派に収容所長の任を成し遂げ、そのひげを切り落とそうと一度は決心するものの、第九で歌われる「Vater(父)」が流れる中、ハサミを置きます。何故、松江がハインリヒに「変なひげだ」と揶揄されながらも剃らなかったことの意味が、ここで明らかになると、かなり泣けてきます。
第九の演奏シーンではドイツ兵や鳴門の民がじっくりと聞いていますが、やがて、演奏が盛り上がってくると、ドイツ兵も歌い出し、鳴門の民は盆踊りの拍子でも取るかのように体が動き出します。
映画では鳴門の人々もこの演奏を聞いたことになっているのですが、史実が違っていて、収容所の施設内で行われたため、ドイツ兵や、収容所の関係者の日本人しか聞いていません。
しかし、この映画のシーンでは、クラシック音楽をじっくり聴く、という感じではなく、聞いて気持ちが高揚し、歌い出し、踊り出し、やがて人種が違っても気持ちが一つになるという、第九の音楽を見事に映像化されており、けだし名場面だと思います。
ちなみに本作のドイツ語タイトルは「Ode an die Freude(歓喜に寄せて)」という第九に付された、フリードリヒ・フォン・シラーの詩と同名です
戦争の中の第九
第九は平和の象徴としての音楽として、よく取り上げられます。
世界人類みなきょうだいである、という理念のもと、例えばベルリンの壁が崩壊した際に東西ドイツのオーケストラが共演しての演奏会は非常に話題になりましたし(歌詞の「Freude(歓喜)」を「Freiheit(自由)」に変えて演奏)、EUの国歌的な扱いになったり、ドイツ復興の記念で歌われたり・・。
しかし、音楽は時に人の感情を煽るものであり、第九もプロパガンダで使われた歴史もあります。
例えば、第二次大戦時のドイツにおいて、ヒトラーの1942年の生誕前夜祭の演奏はあまりに有名。指揮はドイツの巨匠、フルトヴェングラー。演奏はベルリンフィル。フルトヴェングラーは当初演奏会に出るのを拒んだものの、ベルリンフィルの常任指揮者であったためやむなく登壇。そのためかどうかはいざ知らず、演奏は轟々としたものすごい演奏となりました。
その演奏家のラストの方は映像にも残っており、奇しくも、演奏会終了後、ナチの高官ゲッペルスと握手する姿(フルトヴェングラー自体は嫌々)の映像が流れてしまったために、ナチに協力した者として、数年間公の場での演奏活動を停止させられます。その後無罪が確定するものの、アメリカ行きの話はユダヤ人の演奏家の反対にあい破談になったりと決して充実したとは言えない音楽活動をすごすことになります。やはりナチスのプロパガンダに利用されていた「バイロイト祝祭大劇場」の51年の復興コンサートで、フルトヴェングラーは第九を振り、この演奏は「(フルトヴェングラーの足音入り!)レコード」として伝説として残されています。また、死去する年の54年ルツェルン音楽祭で振った第九も伝説級の名演と言われており、この42年、51年、54年の演奏は、「第九=フルトヴェングラー」を決定づけた伝説として聞き継がれています。
その42年のヒトラー生誕前夜祭の様子の動画がありますのでupします。
ゲッペルスの姿や、負傷している兵士らが聴衆にいて、なかなか生々しい映像です
学徒出陣の第九
1943年12月。上野の奏楽堂で、学徒出陣に出向く大学生たちを壮行するための壮行会で「第九」が演奏されました。戦地に赴くため、卒業式を12月に繰り上げ、卒業させての学徒出陣。いったい、彼らはどのような気持ちで、この第九を聞いたのでしょうか・・。
不肖椿が以前参加したことのある第九合唱団に、当時80を超えたおじい様が合唱に参加していました。その方は戦中、アジア方面に赴任しており、戦地にも大切にしていた第九のレコードをナップザックに入れて戦っていたそうです。しかし、ある時、撃たれ転倒した際にレコードを割ってしまい、自身の怪我以上に辛くて大泣きした、という思い出を語ってくださいました。
戦後、戦地から戻ってきた学生を迎え入れるための演奏会も12月に行われたそうです。
この学徒出陣の「第九が12月に行われた」事実が、日本人が12月に第九を歌うようになったきっかけと言われる大きな理由のひとつとして挙げられています。
2章 『ここに泉あり(1955)』~我が町のオーケストラ誕生記~
【あらすじ】
終戦直後の群馬。生活もままならないような人々が多い中、なんとか人々に音楽を聴く喜びを与えよう、心に泉を沸かせよう、と高崎市民オーケストラを結成し演奏活動や資金集め、メンバー集めに奔走する井出。オーケストラは数人の軍楽隊出身のプロ音楽家をのぞけば、二足のわらじを履いているような、別に本職をもった人間が多数。そのため稽古もままならず、技術があがらないため、演奏の依頼もなかなか来ない。楽団としての収入が雀の涙のため、楽団員たちのストレスもたまり、プロとアマチュアの間でも喧嘩が絶えない。
そんな楽団に東京から高い才能の速水が招聘される。速水は別職業と掛け持ちで練習もままならない団員を排除し、技術向上を図る。様々な反発も乗り越え少しづつ演奏技術も上がってくる。彼らの演奏活動は群馬県中を汽車、バス、徒歩で移動。汗雨泥まみれになって山中の田舎町まで出向く。
稽古中は文句たらたらなメンバーも、演奏先で自分達のかなでる音楽に耳を傾けて聞いてくれる聴衆をみると、彼らも頑張ろうという気になった。
しかし、無理におこなった東京の一流オーケストラとの合同演奏会で実力も金銭的余裕も雲泥の差を見せつけられ速水や数人はこんな田舎にくすぶっていては自分の腕は落ちるばかりとモチベが下がり、井出も自身の家を抵当に入れるなどして資金集めに苦慮し、ついには家庭崩壊し、病に伏してしまう。とうとう立ちいかなくなったオーケストラは、最後の演奏にと訪れた利根の山中にある小学校で音楽をじっくり聞きこむ聴衆たちの熱烈な歓迎と音楽にじっくり聴きこもうとしている姿に心打たれるのであった・・。
名匠 今井 正監督が、小林桂樹、岸 恵子、岡田英次、加藤大介、三井弘次、東野英治郎、千石規子、草笛光子など豪華キャストを迎えてのオーケストラサクセスストーリー。
脚本が、『また逢う日まで』『ひめゆりの塔』『おとうと』、大河ドラマ『竜馬がゆく』など、女性目線で物語を紡ぐ名脚本家 水木洋子。脚本脱稿までに1年かかったと言われています。
戦後、急速に復興してゆく日本でしたが、政治経済の中心である東京と、片田舎であった群馬とでは復興の力のかけ方が全然違い、まして群馬の山奥ともなると、もう違う国なのではないかというほどの格差が、生活水準のみならず文化や、新しい日本を作ってゆこう、生活をよくしてゆこう、夢を希望を持ち生きていこうという思いにまで生じていたことが分かります。
そんな中、どんなに田舎であろうと群馬にいるすべての人々に、夢と希望を、音楽を通じて提供しようと考え行動した主人公とオーケストラメンバーの熱意に胸が熱くなります。
しかしながら、その強い想いとは裏腹に、自分達の文化的な生活を犠牲にし、やってもやっても、都会で活動している人間とは経済的にも、自らの実力的にも格差が生じてしまうジレンマ。国や行政が徹底して支援してくれるわけではなく、市民自らの手で草の根で活動を広げてゆくしかない。その限界にもがき苦しみ、何度も挫折。しかし、そんな彼らをいつも救ってくれるのは、音楽に触れ、目をらんらんと輝かせる子供たち、オーケストラ?なんだそりゃ?というような不思議な眼差しを向けながら、その音楽に引きつけられる山間の人々、ハンセン病施設への慰問で、隔離された患者が病気で拍手ができずほぼ無音の裏拍手をしながらの、伝わってくる痛いほどの感動・・・。
そして、本当にゆっくりではあるけれど、群馬全県に浸透してゆく音楽の輪・・。
そして、風前の灯火だった楽団が、大曲であり難曲である、ベートーヴェン「第九」交響曲を演奏する感動のフィナーレ。これこそ、ベートーヴェンの信念としてとても有名な言葉であり、「第九」に流れる永遠のテーマである
Durch Leiden Freude(苦悩を突き抜け歓喜に至れ!)
の精神を見事に表していると言えましょう。
ちなみに本作。現在日本のプロオーケストラの中の屈指の存在である『群馬交響楽団』設立の実話をベースにして作られています。
独立プロ
本作を製作したのは東宝や松竹などの大手映画会社ではなく『独立プロダクション』と呼ばれる映画制作会社。
戦後民主主義の浸透ともに、「自由」や「民主化」の熱が日本中にまきおこります。その熱は映画界にも流れ、映画の民主化、自由化、そして、そこに働く人々の労働環境の改善などを求め、激しい労働運動に発展。米軍までをも巻き込む「東宝争議」は、その激しさから有名な話です。
結局、その争議によりはじかれてしまった人々や、日本にも吹いたレッドパージ(赤狩り)により映画会社から追放されてしまったような人々が中心となり、独立プロダクションを設立させました。
本作の今井正監督はじめ、山本薩男、関川秀雄、家城巳代治といった名監督たちにより様々な名作が作られてゆきます。『真空地帯』『ひろしま』『橋のない川』『キクとイサム』などといった日本映画史にその名を刻む作品を多く制作。
戦争の惨禍を経て復興に進む日本。その陰で理不尽に虐げられてきた人々や、弱者、差別に視点を置き、そういった問題を常に提起し、怒りやそういった事象の撲滅を願って作られたものや、戦後の、人間同士の付き合い方、家族や仲間、会社といったものへの眼差しも深い作品を多く作られています。『ここに泉あり』は、そういう意味では、少し変わった毛色の作品のような気もしますが、地方にも同じく人間が生きており、等しく文化的な生活が送れるようにできる、そんな訴えが底辺に流れている作品であり、「独立プロ」でなければ成し得なかった作品であったと言えます。
山田耕筰
日本の作曲家、指揮者として著名な山田耕筰。皆さんも子供の頃、音楽室の後ろに、モーツァルトやバッハ、ベートーヴェンと並んで、有名な作曲家として肖像画が飾られている数少ない日本人作曲家の一人として認識されている方も多いのではないかと思います。(あとは滝廉太郎と中山晋平くらい?)
歌曲「からたちの花」「この道」、童謡「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」など、誰もが耳にしたことのある作品を作っておりそれでかなり有名ですが、オーケストラの曲なども作曲しているものの、今ではあまり耳にすることはありません。また、戦中、戦後より西洋音楽の普及に尽力するものの、才能はありながら、人間関係をうまく構築できなかったり、金や女にだらしが無かったこともあり、自身が望んだような、西洋音楽を普及する活動(楽団や協会の設立)は頓挫してばかりでした。
また、脳梗塞により左半身不随となり、指揮の舞台にも立つものの、実際には助手が脇に立って、演奏家もその助手の指揮を頼りに指揮をする、という不遇な音楽活動をしていたとも言われています。
実は、この偉大な音楽家。本作で本人役で出演しているのです。しかも、短いながらちゃんとセリフもしゃべっているし、貴重な指揮姿も披露しています。
一度、東京のオーケストラと合同でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番等を振っており(この演奏のピアニストは100歳を超えなお現役の室井摩耶子!)、数年後、別の演奏会のため列車移動中に高崎にたどり着いた山田。「彼らはどうしてるのかねぇ・・」と立ち寄った高崎の練習場で、今や見違えた演奏をするオーケストラに感銘する、という場面を見事に演じています。
そして、最後、真の実力を兼ねそえた群馬のオーケストラは、東京のオーケストラと合同で、地元群馬にて、山田耕筰の指揮でベートーヴェンの「第九」を演奏するのです。第九の「歓喜のメロディ」が流れる中、楽団員やかかわった人々、仲たがいや技術不足を指摘され楽団を去っていった人々も演奏会を聞きに訪れ、一緒に演奏活動を行っていた時のことが走馬灯のように頭に流れる。
そして、山田耕筰自身、苦労しても成し遂げることのできなかった楽団設立への想いを、この映画に重ね合わせていたのではないでしょうか。そして、半身不随になり、自身の指揮以外に、助手をたてて指揮をさせていた、というのは、ベートーヴェンの第九初演時のエピソードである、「(ベートーヴェンが)耳が聞こえないため、自分以外にもう一人指揮者を立て演奏した(終演後万雷の拍手に気が付かず、女性歌手が彼を客席に振り向かせた)」に、これも自身を重ね合わせていたのではないでしょうか。
ここに役者ではなく、本物の指揮者、しかも楽団設立に苦心したという映画と同エピソードを持ち、ベートーヴェンと同じ境遇をもった山田を出演させるキャスティングはあまりに素晴らしいです。
民衆の手で音楽が作られ、どんなに苦難や困難に会おうとも、その先に待つ「歓喜」のために立ちむかう力、自由を自らの力で勝ち取る姿を描いた本作は、まさに「第九の精神」を映画で表したといっても過言ではありません。
オーケストラの餅代
このように、オーケストラの運営には大変なお金がかかり、これを生業にしてゆくのは大変なことです。そこで、オーケストラは年末のボーナス代わりに、「第九」をコンサートに持ってゆき、楽団員の餅代稼ぎをした、というのが、日本で年末に第九をやることになった理由の一つとも言われています。
戦後、NHK交響楽団が年末に第九を演奏するようになり、日本人の第九人気に余計に火が付くと、これが定着化。プロのオーケストラが年末に複数回、第九の演奏会を自身で開くのみならず、各地の第九合唱団から、オーケストラの演奏依頼が舞い込む。第九の好きな観客はもちろんのこと、合唱団の家族や知人もチケットを買うため、非常に安定した収入が期待できる・・
こんな理由から、年末に第九があっちゃこっちゃで演奏される、っという話も、あるんですねぇ~
3章 『俺たちの交響楽(1979)』~第九を歌う、ということ~
【あらすじ】
川崎の工業地帯に職工として勤める新田は町中で、「第九を歌う」合唱団員の募集ビラを配る女子たちと出会う。そのうちのひとり、小林に目を付けた新田は彼女目当てに、職場の先輩、後輩を巻き込んでホイホイ入団してしまう。もちろん、クラシック音楽など聴いたことも無いし、ドイツ語で歌ったことなんてない新田は稽古早々から苦戦。鬼のような合唱指導者の罵詈雑言に怒り、合唱団を飛び出してしまう。公演が近づく中、合唱も実力をあげてくるが、合唱団の運営に色恋沙汰や見解の相違から仲たがいが起き、大事なところで空中分解しそうになる。小林もいざこざから団を飛び出してしまう。新田と小林がほのかに思いあっていることを知っている団員たちは新田に、小林への説得を頼む。実家に戻ってしまった小林を迎えに行く新田。そして二人はまた合唱に参加。そして本番を迎える
『男はつらいよ』の山田洋二原案、山田の弟子で『男はつらいよ』『釣りバカ日誌』など、山田作品に多くかかわり『幸せの黄色いハンカチ』『たそがれ清兵衛』などの脚本で数々の賞を受賞、『思えば遠くへ来たもんだ』『えきすとら』などを監督した浅間義隆の第一回監督作品。
川崎に実在した川崎労音合唱団「エゴラド」の、大曲「第九」への挑戦をベースに若い男女の青春と葛藤、愛情を描いた、松竹らしい、山田組らしい人情ドラマ。
主人公の新田に武田鉄矢。その恋人、小林に友里千賀子、ほか、永島敏行、森下愛子、熊谷真実などの当時の青春スターと、合唱団長に山本 圭、合唱指導者に田村高廣といった演技派が加わり、倍賞千恵子、渥美 清、下條正巳、三崎千恵子、太宰久雄、佐藤蛾次郎といった『男はつらいよ』メンバーが友情出演で華を添えます。
合唱と労働運動
日本の合唱の発展を語る上で「うたごえ運動」の影響は避けては通れません。
「うたごえ運動」は1950年代から60年代にかけておきた、「うたごえ」を中心にした労働運動・社会主義、共産主義運動で、学園闘争とともに広がりをみせ、流行した「うたごえ喫茶」から、職場や学校、地域などで「うたごえ」サークルが勃興します。
当初歌われていた曲はロシア民謡を中心に革命歌や労働歌などが歌われていました。どんどんと経済成長を遂げてゆく日本社会の中で、資本家経営者と労働者との格差や自然破壊、都会の一極集中と過疎化する村など変わりゆく日本の姿を憂えた民衆は、歌に集い、繋がり、抑圧への抵抗や反戦や平和というものを強く訴えてゆきました。スタイルの違いはあれど、同じころに流行したフォークソングなどの流れと同じでしょう。
やがて、社会の流れとともに学生運動、労働運動は下火となりますが、「合唱団」という文化は残り、「力強く団結」を訴える合唱から「美しいハーモニー(協調)」を求める合唱へと変化してゆくのです。今では日本中に何千という合唱団が存在し、世界に類を見ない合唱大国となっています。
第九合唱の位置
そんな「うたごえ運動」から生まれた合唱が盛んだったころの「合唱」の最高到達点がまさにこの「第九」、歓喜の歌・喜びの歌だったわけです。歌声には力強さが必要で、人々の団結による世界平和を訴えたこの曲は、まさに合唱曲の頂点だったわけです。
現に本場ドイツでは1918年に、ライプツィヒにおいて労働者のためのカウントダウンコンサートとして12月31日に第九が演奏されました。これが日本の年末の第九に繋がったのは、労働運動、うたごえ運動とは決して無縁ではありません。
本作に登場する「ドラゴエ」合唱団も川崎の工場労働者を中心にしてできた合唱団であり、映画でもその様子が描かれています。かつての学生運動のような社会への闘争から、団結して「第九」という巨大なものへと、挑む対象を変えながらも、団結と友情を深めることは変わらないスタイルとなっていったのです。
「第九」は誰もが認める、「音楽」の最高峰であり、欧米ではある意味「神の音楽」であり、日本のように、老人から子供までが「暗譜」で歌う、なんていうことはクレイジーとすら思われています。そんな異国の国日本で、毎年何百もの「第九」演奏会が催され、五千人だ、一万人だの第九イベントまで開催される。このような凄まじい現象は類を見ないのではないでしょうか。
最も、合唱文化の高みを迎えた日本において、今では、合唱愛好家はもっと複雑な曲やハーモニーを好み、クラシックで合唱を取り入れた大曲に挑んだりしますし、「第九なんて、耳の聞こえないベートーヴェンが声を無茶して使わせるひどい歌だ」と言って毛嫌いする人もいるくらいです。でも、第九人気は衰えを知りませんし、今のように合唱文化が花開いたのも「第九」のお陰である、というのは知っておいて欲しいですね。
不肖椿、実は過去に第九の舞台を200回ほど踏んでいます。中学三年、クラシックも音楽の授業も、歌を歌うことも大嫌いだった私が、つい何とはなしに聞いてしまった「第九」に金づちで頭を殴られたような衝撃を受けてから30年弱歌い続けてきましたが、そんな第九を聞いて、「歌いたい!」と思い立った時のちょうどなタイミングでテレビでこの映画が放送されました。
映画では腹筋背筋などしながら歌を歌うとか、かなり厳しいことをやっていて、鬼のような田村高廣の合唱指導者がとても怖く、「歌うのってこんなに大変なの?」と思ったのを思い出します。
実際自分が合唱に参加したところは、こんな鬼コーチのようなことは無かったですが、この合唱指導者のモデルになっていたのが、映画製作当時、合唱指揮者だった郡司博さん。この方の指導する合唱団に入ったこともあるのですが、ドラゴエで怒ったり、確かに怖かった・・・(;^_^A
でもユーモアとカリスマ性と的確な指導で声やハーモニーを引き出す天才でした。
あっ、ところで、この合唱団の「エゴラド合唱団」の名前の意味、ご存知ですか?労働運動、ロシア民謡なんて話をしたから、ロシア語?とお思いでしょうか?
「エゴラド」を逆さ読みしてみてください。その意味が分かります(笑)
ちなみに関西大学にある同名の合唱団とは別団体です
映画自体は、正直面白いかと言われると、そこまで、、、と言ってしまうような感じですが、ひとつのものを皆で取り組むという団結の気持ちと、そんな中で青春を過ごす若者の群像劇として、当時はやった「俺たち~」なテレビドラマの延長線として、そして『男はつらいよ』の流れを汲む、ハートウォーミングな人情喜劇として十分楽しんでもらえる作品だと思います。
『幸せの黄色いハンカチ』や『思えば遠くへ来たもんだ』に代表される、この頃の武田鉄矢はとてもいい芝居をしています。
現在UNextにおいて配信で見ることができます→配信はこちらをクリック
第九がこんなに広がったのは、曲の理念が共感を呼ぶ、というのもあると思いますが、実は非常にカラオケ的(オーケストラのなにがしかの楽器が、歌の音を弾いている)であり、大きな声を出して歌うストレス発散もでき、ドイツ語で歌うにしても、歌詞は同じ内容の繰り返しなので、覚えてしまえばさほど難しくは無い、という、実は素人でもめちゃハードルの低い、入りやすい曲なのです。
実際の第九の初演の合唱も急ごしらえのアマチュア合唱団でした。
すみだ五千人の第九では、開催当初、向島の芸者さんなども参加。歌詞を覚えるのに
「風呂井で 詩へ寝る 月(げっ)照る 粉健(ふんけん)」などと語呂合わせで覚えていたという逸話もあります。
もし、皆さんも「第九を歌おう!」なんて話がご近所であったら、一度歌ってみてはいかがでしょう
その際、本日ご紹介した映画も是非、参考にしていただけたらな、と思います。
と、映画の話なのか「第九」の話なのか、訳が分からなくなってしまいました(;^_^A
訳が分からなくなるのはいつもの事・・・と突っ込まないようにっ
最後に、一万人の第九を貼り付けておしまいにいたしますっ