東宝俳優録6 久我美子
第1期東宝ニューフェイスの女優陣で、最も活躍したといえるのは久我美子ということになるだろうか。

久我美子は31年生まれ。つまり、ニューフェイスオーディションの時は15歳だったのである。本名は字面は一緒だが、クガヨシコではなくコガハルコと読む。彼女が華族出身の令嬢であったことは有名な話であろう。久我家というのは公家華族の中でも五摂家と並ぶような家柄だったという。
子供のころから映画好きで、43年には木下恵介の監督デビュー作「花咲く港」、黒澤明の監督デビュー作「姿三四郎」を12歳にして映画館で見たという。「姿三四郎」を見る少女というのも中々いないような気もするが、このころ既に自分は女優になると決めていたという。東宝に好きな作品が多く、憧れの女優(原節子、高峰秀子など)も東宝に多かった。規定では16歳以上であったが、イチかバチかでニューフェイスのテストを受けて見た、と90年代に行われたインタビューでは明るく語っていたが、実情は少し違っていたようだ。
彼女のニューフェース応募は、悪化していた久我家の経済状態を打開するためだった、とも言われている。どうせ働くなら好きなことをと考えたのである。しかし、体面を汚すと特に祖父からは猛反対され、結局戸籍を母の兄が養子に入った先の池田家へ移し、池田美子(ハルコ)の名で東宝に入っている(翌47年に華族世襲財産法の廃止で久我姓に戻した)。久我(コガ)姓を名乗らないことも条件だったが、東宝側の希望で久我美子(クガヨシコ)という芸名になった。というより、普通は「クガヨシコ」としか読めないと思う。しかし、撮影所では本名の「ハルコ」で呼ばれることが多かったというからややこしい。
女子学習院を中退し、46年7月に東宝演技研究所に入っている。養成期間は三カ月の予定だったが、東宝争議の影響で半年に延びた。一回り年上の同期である三船敏郎については、当初から強烈なものがあったという。ニューフェースのオーディションの時に少し遅れてきた三船を見た時に「この人は絶対に受かる」と思ったと語っている。
養成期間が終わっても、彼女と若山セツ子には中々仕事の話がなかったという。後には共に人気者となる二人だが、久我16歳、若山18歳と若かったことも要因であろう。

ようやく決まったデビュー作が「四つの恋の物語」(47年)で若山も同作がデビュー作となった。4つに分かれたオムニバス映画であり、監督も4人である。久我は豊田四郎が監督する「初恋」でヒロインに抜擢された。争議の影響で俳優が大量離脱し、ニューフェイスを起用するしかなかったという事情もあった。相手役は倍以上年上の池部良で、当時34歳だったが高校生役である。当時はまだまだ子供だった彼女を見て池部はがっかりしたらしい。
ある日豊田の助監督だった杉江敏男(後にクレージー映画などで活躍)が「初恋」の脚本家が会いたがっているよ、と彼女を呼びにきた。旅館に連れていかれると「寒かったでしょう」と優しく迎えてくれたのが黒澤明だったのである。黒澤は本作では脚本を担当していたのだ。ちなみに本作の助監督には岡本喜八もいて、後に考えると豪華スタッフの作品だったのである。

3本目は成瀬巳喜男監督の「春のめざめ」(47年)で、主演の女学生役に起用された。長野県で2か月近いロケを行ったが、彼女は桃の食べ過ぎと川で泳いだのがたたって大腸カタルになり、すっかり痩せてしまい、それ以来は小柄で痩身というイメージがついた。
翌48年には黒澤明監督の「酔いどれ天使」に出演。セーラー服の少女と言う名もない役ではあったが、存在感は示せたようである。この年、東宝は第三次争議に入り、映画制作はストップしたため、俳優は新たに組織されたいくつかの演技者集団に編入されることになる。彼女は黒澤作品初期のプロデューサーであった本木荘二郎を中心とした中心とする自立俳優クラブに加わり、「酔いどれ天使」を舞台化した出し物に出演したりしていた。大阪では前日まで、ストリップをやっていたような劇場で、客が飽きてしまうので、どんどん間がない芝居になり、2時間だったものが1時間半になっていたという。
他社出演も経験し、東横映画「不良少女」(49年)では、主役の不良少女を演じるが、生来の育ちの良さがつきまとい成功作とは言えなかった。松竹の「朱唇いまだ消えず」(49年)では、監督の渋谷実に「それが芝居かい?」と怒鳴られたりもしたという。

そんな彼女が注目されるようになったのは今井正監督の「また逢う日まで」(50年)に主演してからで、岡田英次との窓越しのキスシーンは当時としては刺激的で、大きな話題となった。この50年、彼女は12本の映画に出演するという多忙ぶりであった。

そして、黒澤作品である「白痴」(51年)への出演。これは松竹配給である。黒澤にはドストエフスキーの原作を読んでおくように言われたが、忙しくて自分の役のみ拾い読みしたという。ロケは北海道で行われ、相手がいないと稽古ができないと彼女が言うと、志村喬が森雅之の代わりに付き合ってくれたという。憧れだった原節子との絡みは、森雅之を取り合う対決の場だけだが、原節子の眼から涙が流れるのではなく、飛んだのだと証言している。とにかく圧倒されたという。

これを最後に東宝を離れ、51年4月からは大映の専属となっている。大映では主演級の作品は多かったが、本人的にはメロドラマばかりで嫌だったそうである。そして54年にはフリーとなり、木下恵介監督の「女の園」に出演した。この「女の園」と「悪の愉しさ」「億万長者」「この広い空のどこかに」の助演三作で、54年度毎日映画コンクール助演女優賞を受賞した。また、岸恵子、有馬稲子と三人で文芸プロダクション・にんじんくらぶを設立した。

60年の時代劇大作「大阪城物語」で共演した平田昭彦と翌61年に結婚。交際中は毎朝ロケ地の宿泊先の喫茶店でデートを重ねていたというが、公然とした付き合いだったが誰もそのネタを週刊誌などに漏らすものはいなかったという。夫の平田は84年に亡くなったが、二人の間に子供はいなかった。
今世紀に入って、久々に公の場に姿を見せたのが年下の義姉である三ツ矢歌子の葬儀であった。ちなみに、三ツ矢の夫、つまり平田の兄は映画監督の小野田嘉幹で、平田・久我が結婚する前年である60年に結婚している。 久我も昨年(2024年)93歳で亡くなっている。