ゴダール 『 軽蔑 』 と ベルトルッチ『 ラストタンゴ・イン・パリ 』 ( 後 )
両作品はメタ映画、映画論の映画でもあります。
『 軽蔑 』 原作ではプロデューサーがイタリア人ですが、映画でアメリカ人( ジャック・パランス )に代り、監督( フリッツ・ラング )と対比することで、「 映画は芸術家である監督ではなく製作者( 出資者 )のものである 」というハリウッドに代表される商業主義を批判しています。


『 ラストタンゴ 』でジャンヌの恋人トムが映画を撮っています。
演じるのはヌーヴェル・ヴァーグを象徴する俳優ジャン=ピエール・レオ。
トムは映画オタクだが、裕福な家庭のお坊ちゃん。
ジャンヌをレンズを通した被写体としか見えておらず、フィアンセというのに両者にはセックスのにおいがしない。 彼女がポールと関係を持った「 仮想空間 」のアパートの部屋には興味がない。


ちなみに『 軽蔑 』は最初公開のバージョンが会話だけでセックス描写に欠けるとして、プロデューサーのカルロ・ポンティとジョゼフ・E・レヴィンの大物2人には不満で、セックス・シーンをもっと増やすようゴダールに要求しました。
ゴダールは妥協策として、全裸のブリジット・バルドーをカラー・フィルターを通して映すシーン( 撮影はラウール・クタールに代りアラン・レヴァント )を追加撮影。
フランスと日本の公開バージョンはその冒頭シーンを含んだもの。
一方『 ラストタンゴ・イン・パリ』は「 萌え 」と感じるきれいなエロさじゃなくて、「 醜悪 」と感じさせる生々しさ。
ポールが作った名前も素性も知らない男女がただセックスをする部屋は、かっこつけて言えば「 思考実験する仮想空間 」。
愛とか何か意味や本質があってセックスするのではなくて、カラダを許し合いセックスしていくなかで愛や本質ができていく・・・ベルトルッチが書きましたがモラヴィアに通じる実存主義的な考え。
レイプといっていいようなイヤらしいことをされても、冷酷でもミステリアスな男として受け入れてきたジャンヌでしたが、ポールが名乗り素性を明かし求愛すると、きもくおぞましい存在として拒絶する。
くたびれたクズ野郎として死んでいくポールはみじめだ。
愛を渇望していたポールに自業自得ながら人生の残酷さ、逆説的に、「人生とは、愛とは何か」を感じます。 いろんな意味で痛みを感じる映画です。
改めて両作品ともに名画だなと思いました。
みなさんも観比べてみられてはいかがでしょうか
ロキュータス名義でのレビュー
『 軽蔑 』 前回(2011年1月15日付 )は こちら
『 軽蔑 』今回(2025年9月5日付 )は こちら
『 ラストタンゴ・イン・パリ 』前回(2010年12月31日付 )は こちら
『 ラストタンゴ・イン・パリ 』今回(2025年9月5日付 )は こちら