コトー先生が教えてくれた生と死
人の営み、本来の自分、他者との関わり、そして生と死。
様々な要素が絡み合いながらも、観客を混乱させることなく感動に導く。コトー先生や島の人たちに魅了された2時間はあっという間だった。
私は、看護師と言う職業柄、やはり医療職者の視点で観てしまうのは否めない。
どのような処置を施しているのか、どのような判断を下しながら診療を進めていくのか。
しかし、自然といち観客としていつの間にかコトー先生の虜になってしまった。
それは、なぜか。
コトー先生が、その人の「病気」ではなく、その人の「人生」を診ているからだ。
カルテが日記のようだ、と研修医の織田先生がコトー先生に言うシーンがあった。
カルテとは、本来書き方が決まっていてある程度形式的に書かれるものである。
それなのに、日記とは…?
コトー先生は、その人の1日1日を綴っていたからだ。
少しの変化も見逃さず、その人がその時感じたことや価値観もしっかりと残せるように。
一人一人に人生があり、価値観があり、生活がある。
患者を患者だと思わず、1人の人として接していく。
「相手の病気だけでなく、その人の人生や価値観を見ていくこと。」
これは、学生時代よく言われていた言葉だ。
忘れていた気持ちが蘇った。
経験を重ねると、頭の中で「こう動けばいい」と、危険予知をし、安全を考えながら先を見越して動くことができるようになる。
しかし、それは時としてマニュアル的であり機械的である。
そこに気持ちはあるのか、と言ったら正直そうではない時もしばしばある。
学生だった頃、看護師になりたての頃、できないことが多いながらも自分ができることは何か?と探しながら患者さんに接していたあの頃。
経験や年数を重ね度ほど見えなくなって来るものをコトー先生はクリアにしてくれた。
もっと丁寧に接していきたい。
もっと相手のことを知りたい。
優しい目で見つめ、相手の話に耳を傾ける。
私たちは技術に頼りすぎている。本来必要なのは、その人を思う真心である。
相手を思えば、少しの変化も見逃さず、機械に全てを委ねなくとも神経を研ぎ澄ませ、五感で相手を感じる取れるのではないか。
今作では、コトー先生自身が病と闘う設定である。
「島に来て20年、僕は患者さんの気持ちがわかった気でいたけど、何も分かってなかったのかもしれない」
恐ろしいくらいハッとさせられた一言だった。
大学のとき、授業で看護師が癌になって初めて患者の気持ちに寄り添えた、と言う動画を観た。
どんなに長年患者に寄り添い、理解しているつもりでも、それは「つもり」であって、深く真に理解しているわけではなかった。と言う、ものだった。
これは、自分の中でものすごく衝撃的だった。
どんなに寄り添っても理解しようと努めても、到達できない領域があるんだ、と。
医療者には到底わからない心情を患者は抱いている。
100%完璧に理解することは難しいけれども、寄り添うことはできる。
そして信頼関係を築くことはできる。
コトー先生、20年もの時間を島の人たちと過ごし信頼関係がしっかりと築けていた。
島の1人となっていた。
患者の目線に立って、安心感を与えられる医療者が本来患者が望んでいる医療者。
どんなに技術が良くても、
どんなに仕事ができても相手に寄り添うことができなかったら、それは患者が望む医療職者ではないだろう。
やはり医療職者の目線で観てしまった今作。
自己の仕事を振り返ると同時に明日からまた目の前の患者さんと向き合おう!仕事に行きたい!笑と思える作品だった。
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