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tetsu8
2025/11/03 11:57

東宝俳優録14 大橋史典(樺山龍之介) 

大橋史典と聞いてピンと来る人は、怪獣好きとか特撮好きの人がほとんどではないだろうか。東宝の俳優としては端役がほとんどだったが、俳優の傍ら怪獣造形も手掛けていたことで知られている。
 

大橋は1915年生まれで、本名は大橋幸利という。東京美術学校の彫刻科を卒業し、35年に松竹蒲田の演出課に入り助監督となっている。
36年、全勝キネマの俳優募集に応じて入社する。本名に近い大橋行利を芸名としたが、後に樺山龍之介と改名する。2メートル近い身長と野性的な風貌が求められ、「密林の覇者」(37年)で、山の男ターザンを主演した。その後も「巌窟王ターザン」「復習王ターザン」(38年)などでターザンを演じ、和製ターザン役者として全勝のスターとなっている。
 

その一方で、33年にアメリカで公開された「キングコング」の追随企画である「江戸に現れたキングコング」(38年)では、猿人の造形を手掛けてスーツアクターも兼任するなどしていた。しかし、まもなく応召され樺山龍之介の名が復活することはなかった。
 

戦後は大映、マキノ芸能社を経て東宝に入社している。かつてのスターではあったが、大橋史典と改名し山本嘉次郎の助監督となっている。一方、相良三四郎名義で俳優活動も継続するという二刀流は相変わらずであった。
48年に「忍術自来也」の製作に参加し、独自で軽量化したコムパウンド・ラテックスを開発し特許を取ったらしいが、後年「マグマ大使」を共に手がけるピープロ社長のうしおそうじは、調べてみるとそれについては怪しいと証言している。しかし、着ぐるみにラテックスを初めて使ったのは大橋であることは認めている。

51年に大橋工芸社を設立。「ゴジラ」(54年)の着ぐるみ制作にも関与したというが、他のスタッフは「当時の大橋は俳優であり、怪獣造形にはかかわっていない」と食い違う証言もある。封印された映画である「獣人雪男」(55年)では、雪男の造形を務め、自ら中に入っている(相良三四郎名義)。造形に関しては、大橋工芸社として東宝以外の作品にもかかわっていた。
 

俳優としても大橋史典を名乗るようになり、「蜘蛛巣城」(57年)や「用心棒」(61年)といった黒澤作品に出演している。「用心棒」では、冒頭で三船敏郎に斬られる大男を演じているのが大橋である。ここでも大橋は役者以外に斬り落とされた手首の作成も手掛けている。
 

63年に東宝を離れ、日本電波映画と専属契約しており、テレビにも活躍の場を広げていった。ほぼ造形が中心で、役者をすることはほとんどなくなったが、「マグマ大使」(66年)第1話に登場する恐竜は自作自演であった。

 

大橋と言えば「マグマ大使」であり「怪獣王子」であり、つまりピープロと関係が深い。その社長といえばうしおそうじこと鷺巣富雄である。大橋が鷺巣の家の二階に寄宿していたことがあったという。二人の繋がりだが、大映で「釈迦」の製作にあたっていたときだったという。
大橋は当時、日本電波映画と専属契約しており「ジャングルプリンス」の大猿の着ぐるみを作った。タイトルから想像できるかもしれないが、和製ターサンものである。戦前には樺山龍之介として和製ターサンを演じていた大橋が、造形で再び和製ターサンものにかかわったのである。ちなみに全26話が製作された後、数年間お蔵入り状態であったが70年にやっと陽の目を見た番組である。

さて、前述の大猿の着ぐるみは日本電波の社長室に飾られていたのだが、それが米国人技師の眼にとまり、本国のシドニー・シェルダンに報告した。今では有名な小説家だが、当時はハリウッドのシナリオライターだったのである。それを見たシェルダンは一山あてれると思い、大橋と個人契約をかわそうと画策したのである。大橋にはハリウッドで仕事をするチャンスだったが、電波映画との契約が残っていたため勝手なまねもできなかった。そこで、京都から急遽上京した大橋は鷺巣に連絡し、「東急エージェンシーにこの話を斡旋してもらえないだろうか」と言ってきたのである。それに加えて「話がまとまるまで、匿ってもらえないだろうか」と頼まれたため鷺巣が二階に匿ったのである。

大橋は結局は日本電波をクビになったため、東急の上島一男が彼を社長にまつりあげて、日本特撮株式会社を作ったのである。これはハリウッド相手にビジネスができるという目算があったためであった。こうして「怪獣王子」の製作が始まったが、大橋は「マグマ」でさえ、一話500万でやっていたときに、その三倍の1600万もかけていたという。鷺巣は大橋に忠告したというが、彼はそれを聞こうとしなかった。しかも、大橋の作成したネッシーは重すぎて全然動かなかったので、鷺巣が急きょ高山良策に小ぶりのネッシーを作らせ、間に合わせたという。
 

怪獣王子」は当初、「月光仮面」で知られる船床定男が監督を務める予定だったのが、大橋が社長あいさつで船床を気に入らないとこき下ろしたため、「マグマ大使」の監督だった土屋啓之助と入れ替えを行ったのである。つまり、「マグマ大使」の後半は船床が監督をしているのだ。鷺巣によれば、そのころの大橋の言動はだんだんおかしくなっていったという。結局「怪獣王子」は視聴率も伸びず、半年で打ち切られた。まもなく、大橋は社長を更迭され会社も倒産となったのだった。
 

映画では東映の「恐竜・怪鳥の伝説」(77年)における造形の仕事が最後となり、89年に74歳で亡くなっている。晩年は京都で市会議員務めていたらしい。

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