日活俳優録3 和田浩治/和田悦子
和田浩治は44年生まれ、本名は和田愷夫(ひでお)と言い、撮影所では「ヒデ坊」と呼ばれていた。父はジャズピアニストの和田肇で、姉がやはり日活の女優となる和田悦子というのは知られているが、母も羽田登喜子という松竹大船の女優であった。

「想い出の和田浩治」というサイトがあり、そこに多くの情報が載っていた。
芸能界入りのきっかけは高1のとき(59年)、日本テレビにエキストラのアルバイトに行ったことである。和田を見た番組スポンサーであるトーハツ(オートバイの会社)の宣伝部の人から、うちのカレンダーやってみない、と声をかけられたのである。「小使いもらえるなら」と軽い気持ちで引き受けたが、撮影を担当したのが杵島隆というカメラマンだった。そのカレンダーを見た松竹の人が杵島を通じて、和田を大船でカメラテストに呼んだのである。次に築地の本社に行かされ社長の城戸四郎と会うことになった。しかし、そこで和田はテーブルに置いてあった煙草盆から、何気なく煙草を取り出し吸い始めたという。城戸は「いくつ?」「15」「お前、15で煙草吸っていいのか」「そいじゃ、失礼します」と言って帰ってきたという。中学時代から、学校をサボりだし、飲酒、喫煙、無免許運転など結構な不良少年だったのである。この時、煙草がなければ母の古巣でもある松竹で俳優になっていた可能性もあったわけなのだ。
カレンダーを見たのは松竹の人だけではなかった。そう、日活の誰かしらも見ており、和田は江守常務(当時)と会うことになったのである。撮影所を訪れると若い人が多く、雰囲気も良かったので入社を決めたという。翌月には正式に契約をかわし、その二日後には「無言の乱斗」(59年)の主演が決まり、三日後には撮影スタートというスピードっぷりであった。
15歳の演技経験もない少年が、ニューフェイスのような研修もなく、いきなりの映画主演である。「無言の乱斗」の監督である西河克巳によれば、身体も大きいが、態度も大きい。しかし、どこか憎めないがあるのだそうだ。印象としては、どこか石原裕次郎に似ていると感じたそうだが、実際にそれは巷でも言われており、当時は裕次郎の少年版のように和田浩治は言われていたのである。

「若い突風」「竜巻小僧」(60年)などの主演スターとしスタートしたものの、やはりその若すぎる年齢がネックとなっていた。どうしても石原裕次郎、小林旭の少年版という感じになり、荒唐無稽なコメディタッチなものにならざるを得なかったのである。女性ファンはともかく、大人は十代の少年がカッコつけている映画など見たいとは思わないのではないだろうか。実際、彼の主演作は客が入らなかったといい、次第に助演に回るようになって行く。

自分が、脇だなと感じたのは「青春の海」とか「二人の銀座」(67年)のころだったという。主役から退いて数年経過していたが、それまではまだ準主演級だと思えていたのだろうか。しかし、そのころ日活は松原智恵子主演でテレビドラマ「ある日わたしは」(67年)をスタートさせたのである。和田浩治も彼女をめぐる男の一人として出演していたのだが、番組視聴率がとても良く、和田にも彼の映画を知らない新しいファンが大勢ついたという。実際に中高生に「和田さんは、テレビの出ですか?」と言われたりしたそうで、本人はこの数年間を「ブランク」と表現している。


人気が再燃したからなのか、69年になると和田は数年ぶりに主演作を得ることになったのである。
「夜の最前線」シリーズ2本と「女の手配師 池袋の夜」の3本である。小林旭も「女の警察」シリーズ等をやっていた頃である。当時はテレビの方に色気を持っていたといい、和田の日活での最後の作品となったのが「女番長野良猫ロック」(70年)なのだが「どんな役だったかも覚えてません」などと語っている。世間的には有名な作品であり、和田浩治も和田アキ子、梶芽衣子に次いでクレジットされており、大きな役なのだが(要するに梶芽衣子の彼氏)、映画館に人が来なくなったという現実もあり、映画よりテレビのウェイトが大きくなっていたようである。
70年に日活を辞めたが、辞めるとも辞めないとも特に宣言せず、何となくやめていたそうである。

和田浩治がデビューして約半年後に実姉である和田悦子も日活で女優としてデビューしている。
和田悦子は41年生まれで、本名は和田二美代という(旧姓)。デビューの詳しい経緯は不明だが、多分弟を通じて、彼女を見た関係者がスカウトしたという感じではないだろうか。

和田悦子のデビュー作は赤木圭一郎主演の「打倒(ノックダウン)」(60年)だが、その際、弟である和田浩治は姉を連れて、プロデューサーやスタッフ等の人々の間を挨拶回りしていたという。姉より多少先輩とはいえ、まだ16歳の少年である。明星のインタビューでそのことを振られると、「こっちが気を使ってやらないとね」とテレていたようだ。
デビュー作こそヒロインの一人として赤木、稲垣美穂子と並んでクレジットされていたが、そう目立つタイプでもなく、その後役はどんどん小さくなって行き、~の友人とか会社の同僚とか、クラブのホステスとか、クレジットも五人から七人くらいの中の一人という大部屋女優的な存在になっていったのである。
63年くらいからは、年に2~3本程度の出演にとどまり、66年の「河内カルメン」を最後にスクリーンから遠のいている。姉弟共演はあまりないようだが、この「河内カルメン」には二人とも出演している。