東宝俳優録4 藤原釜足(鶏太)
「七人の侍」繋がりで、今回は藤原釜足である。

日本史において「大化の改新」というのは結構メジャーな出来事だと思うが、その推進人物である藤原(中臣)鎌足、読みはそのまんまな芸名を付けた大胆不敵な役者である。外国人のもじりは、江戸川乱歩(エドガー・アラン・ポー)、谷啓(ダニー・ケイ)、茶風林(チャップリン)等よく聞くが、日本史に出てくる人物のもじりはあまり聞かない気がする。
藤原釜足は1905年生まれ。本名は安恵重男という。16歳のとき、オペラ俳優にあこがれ、コーラスボーイになろうと滝野川俳優養成所に入る。しかし、これがインチキ学校で、授業料を巻き上げられた上に半年後に卒業しても俳優になれるあてもなく「約束が違う、警察に訴えるぞ」と学校側に迫ると、オペラ俳優である黒木憲三を紹介され、弟子入りする。
安恵一夫の芸名で「カルメン」などのオペラにコーラスボーイで出演する傍ら、東洋音楽学校でヴァイオリンを習ったりしていた。
黒木についてドサ回りの旅に出てるが、三度の食事にも困る始末で、23年には黒木と別れ、奇術の松旭斎天栄一座に入り、各地を巡業する。一座の解散後は、習い覚えたヴァイオリンの腕を生かし、川崎の映画館に楽師として入り5年間を過ごしている。生活の安定をエアたので、28年には結婚し翌年には一男をもうけるが、妻は病で亡くなった。
30年、旧知の榎本健一に誘われてカジノフォーリー結成に参加する。この時芸名を藤原秀臣とし、ソロシンガーとしても活躍した。その後、ブペ・ダンサントの結成にも参加するが、文芸部長だったサトウハチローに「秀でた臣なら鎌足だ」と言われ、藤原鎌足をもじって釜足と改名したのである。
33年、PCLがトーキー映画の自主製作を開始し、第1作としてミュージカルコメディ「ほろよひ人生」を撮ることになり、その出演者として藤原も選ばれ、PCLの専属契約俳優に転向したのである。PCLすなわち東宝草創記から大活躍を見せる。

「坊っちゃん」(35年)のうらなり先生や、「吾輩は猫である」の詩人、38年に社名が東宝になってからも「秀子の車掌さん」(41年)や「馬」(41年)などに出演した。「馬」で助監督を務めてるのが黒澤明である。
戦時中は、当局から釜足の芸名は忠臣・鎌足を茶化しているようでけしからんと言われ、「支那の夜」(40年)から芸名を藤原鶏太と改め、終戦までこれを名乗っている。なので、前述の「秀子の車掌さん」や「馬」では鶏太名義である。46年2月に釜足に戻している。
話が前後するが、36年には沢村貞子と二度目の結婚(46年離婚)。黒澤作品などで共演する加東大介とは、一時期義理の兄弟だったわけである。この夫婦は一時期、実演に転じて、松竹劇場など舞台に活躍していた。46年、松竹の「朗らか週間」で映画に復帰し、徐々に映画出演の機会は増え、48年からは映画に専念することになる。
54年半ばから東宝専属となっており、「七人の侍」出演時はその直前で、フリーの立場での出演だったようだ。
黒澤作品への出演は12本を数え、メインキャストでは三船、志村に継ぐ出演数を誇っている。

「七人の侍」の百姓・万造役も重要な役どころだが、何といっても「隠し砦の三悪人」(58年)の又七役が有名であろう。タイトルの三悪人の一人になるわけだし、太平役・千秋実とのコンビが「スターウォーズ」(77年)のC-3PO、R2-D2のモデルになったという話も有名である。余談だが、この作品は撮影予定日数を大幅に超過し、当然予算もオーバー。そのうちの三カ月が天候待ちの待機であったという。東宝が予算を負担させるために黒澤にプロダクション設立を促すきっかけとなった。
藤原は黒澤作品では、むすっとした仏頂面の爺さんを演じていることが多いが、実像は陽気で明るい人だそうである。黒澤は藤原に「釜さん。あんたはふざけるととても面白いけど、僕の映画では決してふざけないでよ。よそでもなるべく抑えてくれ」とよく言っていたそうである。藤原は首をすくめて、ケラケラ笑っていたそうな。

コミカルといえば、江利チエミ主演の「サザエさん」シリーズ全10本(56~61年)で、磯野波平を演じていたのは藤原で、フネ役は清川虹子である。当初は原作にもキャラ名が定められていなかったため、サザエの父親・母親とプレスシートにも記載されており、波平・フネと決まったのはその7作目である「サザエさんの脱線奥様」(59年)からであった。ちなみに、ノリスケ役は仲代達矢であった。
テレビドラマにも、よく顔をだしていたが、長谷川町子繋がりでいえば、青島幸男主演の「意地悪ばあさん」(67年)には、主人公タツの夫役でゲスト出演。
「七人の侍」繋がりでいえば、左卜全が用務員役で出演していた「ハレンチ学園」(71年)には校長先生の役、志村喬が出演していた「どっこい大作」(73年)や、三船敏郎主演の「荒野の素浪人」(74年)へのゲスト出演などがある。
藤原釜足は85年に80歳で亡くなったが、遺作となったのはNHKの「冬構え」(85年)で、主演は1歳上の笠智衆、共演に元の妻である沢村貞子がいた。
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