『 真昼の決闘 』と『 リオ・ブラボー 』
物言い映画について その2
『 真昼の決闘 』と『 リオ・ブラボー 』
[ 物言い映画について その1 ある映画に対して、それに異論を呈する映画 ] からつづく
西部劇はサイレントの時代からアメリカ映画の人気ジャンルでしたが、人種問題や暴力にまつわる歴史の視点から批判の声が挙がり、アンチ西部劇と目される作品が作られるようになりました。
『 牛泥棒 』(1943) 『 折れた矢 』(1950) 『 シェーン 』(1953)
『 決断の3時10分 』(1957)などが挙げられます。
『 真昼の決闘 』はその代表格の一つ。
ゲイリー・クーパー扮する保安官は、以前逮捕した3人の無法者たちがお礼参りにやって来る知らせを受けるが、住民たちは誰も協力せず、彼は孤立し理不尽な暴力に立ち向かうことになる。
『 リオ・ブラボー 』(1959)が『 真昼の決闘 』(1952)へのアンチテーゼとして作られたというのが定説で、ハワード・ホークスやジョン・ウエインらも公言しています。
『 リオ・ブラボー 』はジョン・ウエイン扮する保安官が、逮捕拘留された弟を奪還しようとする悪党一味に立ち向かう痛快西部劇。
監督はハワード・ホークス 『 果てしなき青空 』(1952)以来7年ぶりの西部劇。
ジョン・ウエインは『 赤い河 』(1948)以来11年ぶりのハワード・ホークス作品で、『 捜索者 』(1956)以来3年ぶりの西部劇。 以降西部劇スターとしても復権。
政治的意図は抜きにして、西部劇への思い、ヒーロー像、社会性と娯楽性、など、映画に対する考え方の違いが両作品にはあります。
ただそれを踏まえた上で、両作品を語る際に政治的対立をやはり避けては通れません。
一つは『 真昼の決闘 』(1952)が『 ヨーク軍曹 』( ハワード・ホークス監督 1941)へのアンチテーゼと考えられるからです。
実在の人物、アルヴィン・ヨークは射撃の名人で乱暴者でしたが、信仰に目覚めて聖書の説く非暴力の人になります。
しかし第一次世界大戦にアメリカが参戦、召集されます、
牧師( ウォルター・ブレナン 『 リオ・ブラボー 』にも出演 )の助言で良心的兵役拒否を申請しますが、彼の宗派の教義として認められませんでした。
信仰と愛国心の狭間で悩みますが、上官の説得に応じて従軍、ヨーロッパの前線で軍功を挙げ英雄となってハッピーエンド。
戦意高揚のリクルート映画で1941年9月公開。 直後に真珠湾攻撃で映画は大ヒット。
アルヴィン・ヨークを演じたゲイリー・クーパーは1度目のアカデミー主演男優賞
『 真昼の決闘 』の保安官役はジョン・ウエインにオファーされましたが気に入らず拒否。
グレゴリー・ペックの辞退を経て、ゲイリー・クーパーに。
グレース・ケリーが演じた新妻は非暴力で知られるクエーカー教徒という設定で、彼女の取る行動の意味は重く、映画は『 ヨーク軍曹 』と真逆で暴力の虚しさと痛みを描きます。
フレッド・ジンネマンはハワード・ホークスを尊敬していて政治的意図はない、と言っていますが、そうは受け止めらなかったのですね。
『 真昼の決闘 』の制作中から脚本と共同プロデューサーのカール・フォアマンは赤狩りの対象となりました。
かつて共産党員でしたが幻滅を感じ1942年にすでに脱退していました。
下院非米活動委員会( HUAC )に召喚されましたが、かつての仲間の名を密告するのを拒否。
すると彼は投獄やパスポート没収などを示唆する脅しを受け、コロンビアから圧力を受けた共同プロデューサーのスタンリー・クレイマーは恐れをなして関係を切りました。
映画を地で行く展開ですね。
スタンリー・クレイマーはカール・フォアマンのクレジットも外そうとしましたが、監督のフレッド・ジンネマンとゲイリー・クーパーは、それなら自分たちも降りると抗議。
脚本のクレジットは残りましたが、カール・フォアマンは出資を引き揚げプロジェクトから降り製作者のクレジットは外されました。
カール・フォアマンはパスポートの発給を停止されましたが、勝訴し、1952年イギリスに事実上の亡命。
1957年『 戦場にかける橋 』でアカデミー脚色賞受賞。 ( ただしブラックリストのためクレジットなし。 当時の受賞者は原作者ピエール・ブール。 共同脚本で同じ事情のマイケル・ウィルソンとともに後年復活 )
1961年 『 ナバロンの要塞 』 製作・脚本
1969年 『 マッケンナの黄金 』 製作・脚本
などを経て、アメリカに帰国したのは1975年でした。
第25回(1952年)のアカデミ―賞は赤狩り支持派と抵抗派のバチバチの対決。
この年授賞式は初のテレビ中継。
『 真昼の決闘 』が作品賞 脚色賞(カール・フォアマン)監督賞 主演男優賞 編集賞
音楽賞( ドラマ/コメディ部門 ) 歌曲賞の7部門ノミネート
『 地上最大のショウ 』は赤狩り支持に中核的だったセシル・B・デミルが製作・監督
作品賞 監督賞 原案賞 衣裳デザイン・カラー作品( イーディス・ヘッド 他 )編集賞
の5部門ノミネート
もう一つ有力視されたのは『 静かなる男 』
作品賞 監督賞 撮影賞(カラー) 助演男優賞 美術賞(カラー) 録音賞 の6部門にノミネート。
監督はジョン・フォード
すでに監督賞3回受賞している第一人者 保守派・愛国主義者と知られ、主演のジョン・ウエインの恩師でもある。
だが、セシル・B・デミルが1950年の全米監督協会総会で赤狩り推進動議を出し、反対したジョセフ・L・マンキウィッツを会長職から引きずり降ろそうとした際は、デミルを一喝し逆に理事職を退任させた人物。
結果は『 地上最大のショウ 』が作品賞。 原案賞と2部門受賞。
主演男優賞はゲイリー・クーパーが2度目の受賞。
ただし本人はメキシコで『 吹き荒ぶ嵐 』を撮影中を理由に授賞式を欠席。
代理で賞を受け取ったのはジョン・ウエイン。
『 真昼の決闘 』は他にディミトリ・ティオムキンが音楽賞( ドラマ/コメディ部門 ) 歌曲賞、エルモ・ウィリアムズ( のちに『 史上最大の作戦 』『 トラ・トラ・トラ ! 』を製作 )が編集賞 計4部門受賞。
監督賞はジョン・フォードが最多4度目の受賞。
授賞式には出席せず、代理で賞を受け取ったのはまたもジョン・ウエイン。
もっとも本人は主演男優賞にノミネートされなかったためか、記者会見ではいまいちの表情だったとか ( 過去ノミネートは1949年『 硫黄島の砂 』のみ。受賞したのは1969年『 勇気ある追跡 』)
フレッド・ジンネマンも監督賞を獲れなかったが、
翌年1953年『 地上より永遠 』がアカデミー賞12部門でノミネート、作品賞・監督賞など8部門で受賞。
雪辱を果たしました。