三十五年目の「 五月三十五日 」
1989年は激動の年でした。
1月7日、昭和天皇が崩御され、元号が平成になると、2月9日手塚治虫、6月24日美空ひばり、11月16日松田優作が亡くなった。
2月にソ連がアフガニスタンから撤退。6月3日イランのホメイニ師死去。
東欧では次々と社会主義政権が崩壊、11月10日ベルリンの壁崩壊。
12月3日マルタ会談でアメリカ・ブッシュ(父)大統領とソ連・ゴルバチョフ最高会議議長が冷戦終結を宣言し、唯一武力で政権が崩壊したルーマニアで12月25日チャウシェスク大統領が即決裁判で処刑され、欧米においては文字通り冷戦は終結。
だが中国と台湾、朝鮮半島が南北分断するなど東アジアでは冷戦はこれまで一度も終わったことはない。
そして1989年で最も大きな出来事の一つが、6月4日民主化を求めて学生を中心に天安門広場に集まった民衆に対して、世界注視の中、公然と行われた武力弾圧。
中華圏では六・四 日本では( 第二次 )天安門事件、アメリカではTiananmen Square Massacreと呼ばれる。
当時の関係者( 中国政府側は拒否 )のインタビューと収集した300時間に及ぶアーカイブ映像を編集してこの事件の推移を検証したドキュメンタリーが『 天安門 』。
製作・監督はカーマ・ヒントン と リチャード・ゴードン。
ウィキペディア日本語版には記述がないので、監督と作品について基礎情報知りたい方は英語版でCarma Hinton / The Gate of Heavenly Peace ( film )をご覧ください。
インタビューに答えた関係者は、当時学生リーダーだった王丹(WANG DAN) ウーアルカイシ( WU’ERKAIXI )や
2010年にノーベル平和賞受賞の劉暁波( LIU XIAOBO)、
息子を殺され被害者団体「 天安門の母運動 」を主宰した丁子霖) DING ZILIN)、
台湾のポップスターでテレサ・テンの応援メッセージも当時披露した侯徳健( HOU DEJIAN ) ら事件後亡命した人、投獄された人、自宅軟禁された人など、考え方も立場もさまざまな15人。
1995年、ニューヨーク映画祭でプレミア上映。 中国政府は上映しないよう圧力をかけたが映画祭主催者は拒否。 中国側は『 上海ルージュ 』(張芸謀・監督 )の出品取りやめ。
ベルリン映画祭は圧力により上映を取りやめたと言われます。
当時のパンフレットによれば、返還を控えた香港では単館上映で異例の5か月ロングラン。
日本政府は天安門事件当時欧米が留学生のビザを無条件延長したのに対し、要望があれば( 申告自体がリスクなのに )認めるという対応。 基本難民としては認めず、特別活動というカテゴリーでの対応。
経済制裁も先駆けて解除、中国の求めに応じて1992年天皇訪中で中国の国際復帰の呼び水となった。
犠牲者の数をはじめ事件の詳細はいまだわからない。
監督のカーマ・ヒントンはBeijing Massacreと呼んでいます。 広場ではなくむしろ北京市内で数多く殺されたと言われる。
中国圏で六・四と呼ばれるのは、北京だけでなく、地方でも弾圧で死者が出ているから。
たとえば公安省の報告にあるとされる公式の集計でも学生市民死者数が全国931名のうち北京が523名、鄧小平。趙紫陽の地元・四川省の成都が277名とある。
有名な戦車男( 無名の反逆者)もいまだ正体不明。
元NHK特派員の加藤青延氏は「 公安当局による自作自演で、戦車は市民をひき殺さないという印象操作ではないか」との説(「 天安門事件 歴史的民主化運動の真相 」)を書いている。 どうなんでしょうか。
あれから35年。 当時と違い中国は経済的に豊かになり、夏冬オリンピックを成功させた。 この映画の映像を観ると、人々の服装や顔つき、話す内容、服装、スマホなどから隔世の感がある。
だが、新コロナの対応や香港民主化の弾圧、台湾だけでなく日本や外国への中国政府の動きを見ていると、当時と今はつながっていると感じます。
コラム表題の「 五月三十五日 」とは1932年発表のエーリッヒ・ケストナーの小説の題名。 「 何が起こってもおかしくない日 」の意味で使われますが、横山秀夫「 64 」とともに、天安門事件を指す隠語として使われます。
『 天安門 』のロキュータス名義のレビューはこちら、
『 天安門、恋人たち 』のロキュータス名義のレビューはこちら、
文化大革命批判とは言え、中国共産党を批判した中国映画が『 芙蓉鎮 』(謝晋・監督 )
1987年、中国映画の最高賞・金馬奨の作品賞、主演女優賞他受賞してます。
これも胡耀邦総書記の改革開放期だからこそと思います。