【ネタバレ】花に嵐のたとえもあるさ サヨナラだけが人生さ
28歳、当時助監督だった西川美和が脚本を描き上げると、師の是枝裕和は「 自分で撮ってみないか。 」と勧めた。
「 無理です。 私がスタッフをまとめていくなんて 」と断ると、「 じゃ、誰に撮ってほしいか 」という是枝に彼女はすでに亡くなっているある監督の名を挙げた。
監督をやる自信はないが、自分の脚本は他人には任せたくなかった彼女は、覚悟を決め、その作品『 蛇イチゴ 』で監督デビューを果たした. ( 「 アエラ 」2009年7月8日号 文・梯久美子 より引用 )
彼女がこの人なら託せると挙げた、すでに亡くなっているある監督が、川島雄三。( 1918 ~ 1963 )
この6月11日で没後60年を迎えます。
もっともよく知られる作品は『 幕末太陽傳 』 ( 1957 )でしょう。
[ キネマ旬報・映画人が選ぶオールタイムベスト100日本映画編 第4位 (2009) ]
そのロキュータス名義でのレビューを再構成して、川島雄三について書きます。
( 以下、ネタバレあり )
『 幕末太陽傳 』のチーフ助監督は今村昌平(1926年生まれ) (ちなみにセカンド助監督は『 キューポラのある街 』『青春の門』などの浦山桐郎)
今村は東京生まれ、医師を父に持ち、東京高等師範学校付属中学(小学校の同窓に俳優の北村和夫)という恵まれた環境に育った今村ですが、終戦後ヤミ市で自活しながら早稲田大学で演劇に没頭。
『 七人の侍 』に感動し黒澤明にあこがれるが東宝が助監督募集していなかったため、松竹へ。
『 東京物語 』で小津安二郎の助監督につきますが、なじめず反発を感じてしまう。
そのあと川島雄三の助監督をしますが、会社に言われるままつまらないバカ映画をつくる御用監督と感じて軽蔑、次の作品で助監督をオファーされても断ってしまう。
制約の多い松竹の社風になじめず、また給与条件もよかったので、作品制作を再開した日活へ移籍。
後から川島が移籍してきて、お互い組みたくなかったが他に人がおらず仕方なく組むことに。
馬力のある今村が押すのを川島がいなしながら作っていく感じで、ぶつかりあうようなコンビになったわけですが、川島の死後、夫人とともに川島の故郷に納骨に行き、追悼本「 サヨナラだけが人生だ 」( 今村昌平・徧 ノーベル書房 1969年 絶版 )を編集するまでの師弟関係になります。
川島、今村と共同脚本を書いたのが、田中啓一。 まだ松竹に在籍していたためにこのペンネームを使った山内久(1926年生まれ)で、兄は俳優の山内明。 後に今村昌平作品『 豚と軍艦 』を書くことになります。 落語に造詣が深く、本作には多くの落語が引用されています。
同じく落語を素材にした山田洋次監督『 運が良けりゃ 』の脚本も書いています。
この作品のキャストで目を惹くのが、1929年生まれの旧制麻布中学出身者。
居残り佐平次を演じた・フランキー堺 、 あば金を演じた・小沢昭一 、ナレーターを務めた・加藤武。
(本作には出ていないが、他に俳優の仲谷昇、劇作家の大西信行らも同窓生)
小沢、加藤の両氏は早稲田大学に進学、名称こそ大学の許可が出ず庶民文化研究会だが、日本の大学に初めて、落研を作った人たち。 そして同時に、彼らは今村昌平、北村和夫と演劇仲間。
この麻布中学3人組はこの後川島雄三に私淑し、常連出演者となります。
この作品のテーマはと尋ねる今村に 「 積極的逃避デゲショ 」と江戸ことばで返した川島。
川島雄三は1918年生まれ。
江戸の粋や東京のモダンな風俗を愛した人ですが、出身は青森県下北郡田名部町(現在のむつ市)、下北半島恐山のふもとの町の旧家に生まれる。
今村昌平が東京生まれで地方の土着性を映画のモチーフにしたのと対照的。
子どものころから体が弱く、徴兵検査も不合格で即日帰宅したが、近衛騎兵出身の頑健な父親には家の恥と言われてしまう。
は誕生日が一週間しか違わない池部良が5年の兵役で九死に一生を得たことを見ても、同年代の多くが出征し、戦死していることから、いやでも肩身の狭い思いをさせられたと想像できます。
戦争中に松竹で監督に昇格しますが、そのころには傍目にも歩行困難となっていきました。
本人は小児マヒであるかのようほのめかしていましたが、ALS(筋萎縮性側索硬化症)。
母親が病弱で、兄姉たちも障害を持つか早くして亡くなるなどしていて、自分には遺伝的な負の因子があると考えてか子に受け継がせたくないと思ってか、妻が妊娠しても産むのを認めませんでした。
川島雄三は死を日ごろから意識していたのでしょう。
でもふだんは明るく、同情されたり、いたわられるのを嫌い、遊び好き、酒好き、贅沢好きで、映画会社を松竹、日活、大映、東京映画(東宝系)と移っていき、給与を前借しては遊ぶ無頼派でした。
『 幕末太陽傳 』では、落語の「品川心中」「らくだ」「お見立て」などを題材に多くの「死」が出てきますが、それを笑いのめしています。
一方、洒落が通じない田舎ものの杢兵衛に佐平次は閉口しますが、・・・・川島雄三の父親は、朝4時に早起きしては、自分の家だけでなく本家の分まで墓掃除する、まじめで厳格な家父長で、川島はそんな父と実家を嫌っていたといいます。
死を意識している川島にとって、説教がましいくそまじめさなど迷惑なだけだったでしょう。
斬ろうとする高杉晋作に向かって、佐平次は「首が飛んでも、動いて見せまさ」と啖呵を切って返します。
二人の間でやりとりされる時計。 最後は高杉晋作から佐平次の手に渡されますが、しょっちゅう止まりますが、これも「いのち」を表していますね。 佐平次は無事修理できるでしょうか。
労咳を患っている佐平次ですが、あんなに元気だった長州の侍たち高杉晋作も、久坂玄瑞も、来島又兵衛も明治を迎えることはありませんでした。
佐平次はアメリカに行くことができたのでしょうか。
女中のお久の元に現れて10年後十両を受け取りに来たでしょうか。
「 花に嵐のたとえもあるさ サヨナラだけが人生さ 」
( 唐の詩人 于 武陵の漢詩「 勧酒 」より 井伏鱒二・訳 )
川島雄三が愛し、また彼をよく表しているとする詩。
会者定離。 一期一会 。
うそっぱちだらけの世の中。 人間なんて、あっけなく死んでしまう。 それは麻布中学組や今村も、戦争体験で実感したこと。
人はいつか必ず死に、別れる時が来る。
でもいつか散ることがわかっていても、花は今日も咲いて見せ、
人はいつか別れることを知っているからこそ、今 酒を酌み交わするのでしょう。
明るいニヒリズムですね。、
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