【ネタバレ】私的ミニ映画祭 ~ エンニオ・モリコーネに敬意と感謝をこめて
【ネタバレ】私的ミニ映画祭 ~ エンニオ・モリコーネに敬意と感謝をこめて劇場で観て感動した『 モリコーネ 映画が愛した音楽家 』のDISCASでのリリースを祝し、ここ数日 関連作2作も合わせて再見しました。夕食には2000円ほどながらイタリアワインを吞み、スパゲティを食しながら、私的ミニ映画祭の趣向で映画の感動を堪能しました。〜 題して、エンニオ・モリコーネに敬意と感謝
公開50年 『 燃えよドラゴン 』というビッグ・バン
公開50年 『 燃えよドラゴン 』というビッグ・バンこの7月20日がブルース・リー没後50年、7月26日が『 燃えよドラゴン 』の香港公開50周年のいうことで、あらためてブルース・リーが起こしたことの大きさを振り返ってみたいと思います。( ロキュータス名義でのレビューと内容はかなり重なります。すみません。 )燃えよドラゴン香港製カンフー映画は、ハリウ
津野海太郎・著「 ジェローム・ロビンスが死んだ 」
津野海太郎・著「 ジェローム・ロビンスが死んだ 」2020年11月 NHK・Eテレ「 SWITCHインタビュー 達人達 」を観ていて、スタジオ・ジブリの鈴木敏夫氏の対談相手、とても知的でお話に引きこまれるこのご老人、失礼ながらまったく存じ上げなかったので、誰だろうと思いました。 津野海太郎( つの かいたろう )氏 調べてみると、晶文社の元編集
あらためて、アメリカ映画の赤狩りの歴史について書いていくことにします。
あらためて、アメリカ映画の赤狩りの歴史について書いていくことにします。あらためて、アメリカ映画の赤狩りの歴史について書いていくことにします。 ぼちぼちと。 アメリカ映画の赤狩り。 有名なところではチャップリンの追放、パージされて『 ローマの休日 』の脚本を名を伏せて書いたダルトン・トランボ、誰が共産党員だったかと問われ友人を売ったエリア・カザンのこと、などでしょうか。
【ネタバレ】花に嵐のたとえもあるさ サヨナラだけが人生さ
【ネタバレ】花に嵐のたとえもあるさ サヨナラだけが人生さ 28歳、当時助監督だった西川美和が脚本を描き上げると、師の是枝裕和は「 自分で撮ってみないか。 」と勧めた。 「 無理です。 私がスタッフをまとめていくなんて 」と断ると、「 じゃ、誰に撮ってほしいか 」という是枝に彼女はすでに亡くなっているある監督の名を挙げた。 監督をやる自信はないが、自分の脚本
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ④ 最初の妻
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ④ 最初の妻 伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ③ 愛媛・松山での出会い からつづく 松山東高校も2年生の秋10月に休学、翌年4月松山南高校の2年次に転入。 卒業したのは1954年3月 21歳。 大阪大学理工学部を受験・失敗。 学歴をもし言うなら、3年ダブっての高卒。 スタンリー・キューブリックも
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ③ 愛媛・松山での出会い
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ③ 愛媛・松山での出会い伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ② 父・万作亡き後 から つづく 1950年、伊丹少年は松山へ、母や妹と再会・同居。 愛媛県立松山東高等学校( 「 父も通い、正岡子規、夏目漱石(「 坊ちゃん 」)ゆかりの旧制・松山中学の後身 」に編入。 1学年遅れの編入で年長だし、クラスの集合写
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ② 父・万作亡き後
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ② 父・万作亡き後 伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ① 父・伊丹万作の存在 から つづく 少年期の伊丹さんを見ると、せんだんは双葉より芳しで、手塚治虫、水木しげる、横尾忠則といった方々と同様、小学校低学年でその画力がすごく、観察力、デッサン力が大人顔負け。 次に転校が多い。 京都生まれだが、父の転勤で東京の
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ① 父・伊丹万作の存在
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ① 父・伊丹万作の存在 伊丹十三 1933年5月15日 京都生まれ。5月15日というと、京都は葵祭ですが、この日に生まれたんですね。今年生誕90年にあたります。 父親は伊丹万作( 1900~46 )監督作に『 国士無双 』『 赤西蠣太 』などがありますし、脚本作品に『 手をつなぐ子等 』(万作の死後・稲垣浩監督で映画化