戦後、こころの焼け野原に神を想った作家。 その3
問い その1
形あるもの。 物質や肉体、文字や表現が存在するのは、見たり触ったりできてわかりやすい。
では形がないもの、 人間が内面に持つ考えや感情、概念や印象、自分と他者の間の習慣、制度や関係など、見たり触ったりできないものは、存在しないのか。
問い その2
涙を流している人がいる。
では、その人は悲しくて泣いている、と言えるのか。
その場合も当然あるけれど、目にゴミが入っても涙は出る。
悲しいが笑ってしまうこともあるし、悲しいからこそ泣けないこともある。
客観的な確かな事実は「 涙を流している 」ということだけ。
それはなぜなのか、本質、意味、原因、理由などは、外から見ても後でわかってくるか、あるいは不確かでわからないこと。
そして人がその内面で何を考え思っているかは、当人か、いるとすれば神しかいない。
当人にもわからないか自分にウソをついていれば、すべてを見ているのは神のみ。
人間は神にはウソをつけない。 絶対的真理としての「 神の存在 (の仮説 )
「 神を見たことがない 」「 神の声を聞いたことがない 」は神が存在しないことを意味するのか。
存在は証明できないが、存在しないことも証明できない。
わからない( 不可知論 )ので、神の存在も不在も「 仮説 」となる。
( 以下作品についてネタばれあり )
『 沈黙 』は江戸時代の苛烈な迫害に合うキリシタンたちと、屈してしまう「 転びバテレン 」の話。
遠藤周作は、踏み絵に残る足形を見て、踏んだ者の足の痛みを書くことにした。
「 こんなに迫害されてるのに、どうしてお救いくださらないのか ? 」
それは神が存在しないからなのか、神の沈黙ならなぜ傍観するのか。
主人公は人の痛みを引き受け寄り添う神の存在を感じて、踏み絵を踏む。
この作品は高い文学的評価を受けた一方、棄教する男に寄り添う神の描写は、クリスチャンの間で激しい論争を巻き起こし、遠藤周作は多くの友人を失いました。
世界的にも同じカトリック作家のグレアム・グリーン( 『 第三の男 』などから強い支持を受け、ノーベル文学賞も取りざたされましたが、激しい反発、批判も受けました。
僕には遠藤周作が描く神が存在するのか、キリスト教の教えとして正しいか、はわかりません。
ただ、私たちは時として現実の中に欺瞞・虚偽を見、時として虚構の中に仮託された真実を見ることがあります。
僕は遠藤周作の作品の中に、神が宿り、人間とは何かという問いを感じるのです。
『 沈黙 』は1971年・篠田正浩監督、2016年・マーティン・スコセッシ監督で映画化されています。
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