Discover us

私の好きな映画

LOQ
2024/09/11 10:27

クリストファー・ノーラン作品から戦争を考える。

 

クリストファー・ノーランが007を撮りたがってるのはよく知られてます。

ダークナイト・シリーズでもさまざまなガジェットを使用し、ルーシャス・フォックス( モーガン・フリーマン )はQに相当。

 

 だがジェームス・ボンドが国家から与えられた殺しのライセンスを持つのに対し、「 相手がどんな奴でも決して殺さない 」というルールをおのれに課して頑なに守ろうとするのが興味深い。。

『 Shall We Dance ? 』が言う、ルールやマナーに厳格なイギリス発祥のスポーツマンシップに通じるものがあります。

 

 

 そして「 復讐は正義ではない 」がダークナイト・シリーズのコンセプト

 そこで思ったのはリーアム・ニーソンが演じた” 師 “と” 弟子 “たちの描かれ方。

 

闇の世界に導こうとする師・ラーズ・アル・グールに弟子のブルース・ウエイン( クリスチャン・ベール )は反逆しておのれを律して戦い、バットマンはダークナイトとなります

 

一方、リーアム・ニーソンが” 師 “を演じた別の作品が『 スター・ウォーズ 』シリーズ。

クワイ=ガン・ジンはアナキン・スカイウォーカーの非凡さを見い出しジェダイの騎士にしようと弟子にしますが、亡くなってしまいその務めはオビ・ワンに託される。

だがアナキンはおのれの憎しみの感情に囚われてダースベイダーになってしまう

 

 『 ダークナイト 』はヒーローアクションもので戦争映画ではありませんし、リーアム・ニーソンの起用も意図的ではなく、おそらくたまたまなのでしょう。

でも僕は師 “と” 弟子 “の対比から、”9.11以降のダースベイダー化したアメリカの戦争のありさまを指していると感じたのです。

 

 「 戦争とは人殺しに過ぎない 」は平時には戦争否定・絶対平和の考えですが、戦争の渦中に置かれると、一転して虐殺を正当化する“ 割りきり “になりかねません。

  戦争だから何をしても良いわけではなく、平時とは状況が変わっても、戦時には戦時なりのルールやモラルの二番底があるはず。

  ダークナイトは超法規的に実力行使はして悪者は捕まえはしても、裁きは司法にゆだね、ジョーカーも殺しはしない。  そこにノーランの戦時の倫理観を感じるのです。

 

『 ダンケルク 』は戦争というカオス状況を立体的に描いています。

 

退却の行き止まりである海岸は1週間、海上は1日、上空は1時間の時間の流れで表され、敵との距離、そして戦う士気の強さを示しています。

命の危険が迫り戦いどころではなく命からがら海岸へ逃げてきたトミーですが、やっとの思いで帰還する

と、まるで凱旋のように人々が歓待するのに戸惑います。

 

  敗走だったダンケルクの撤退は4つ目の時制・後世のマクロな歴史的視点から見れば、“ ダンケルク・スピリッツ “と語り継がれ、第二次世界大戦でのイギリスの勝利への転機という栄光の物語に意味付けされています。

でも、トミーはこの後再び戦地に送られ、死んだかもしれないですね。

 

 

この作品のもう一つの特徴は、基本的に敵のドイツ側を描かず、イギリス側(   友軍だが紛れ込んで退却にお荷物なフランス兵は描かれますが )だけを描いています。

戦争で対戦側を基本描かず、インサイダーである自軍側だけを描く例としてはクリント・イーストウッドの硫黄島2部作もそうですね。

『 父親たちの星条旗 』ではアメリカ側、

 

 

『 硫黄島からの手紙 』では日本側を描いています。

 

 

一つの映画で交戦国双方を描くと、どうしてもナショナリズムが働き、勝ち負けや正義と悪の二項対立になって、視点が当事者の内面から外れてしまいがちになります。

 

 

『 オッペンハイマー 』もインサイダー・アプローチの映画。

 

 

広島・長崎のヒバクの直接描写がないことが批判されますが、

それだけではなく交戦国のドイツや日本の脅威あるいは悪行、冷戦相手のソ連のスパイ活動や1950年代の核開発競争、赤狩りも描かれていない。  

僕はそれらを作品のマイナスポイントとは捉えていません。

 

その批判はたしかにもっともだが、人物や出来ごとの是非を描きすぎるのは、むしろ思考停止してしまうと考えます。

関連人物は描かれてるので、そこから知識や議論を膨らまられる” 含み “や” のびしろ “とする余白と捉えたからです。 

またスミソニアン博物館の展示が当初の企画が横やりが入り、ヒバクの惨状表示が撤去され、投下を正当化させるため日本軍の残虐さを強調された例をみれば、映画をつぶされないよう慎重になったかもしれないと思います。

 

ヒバクの描写がないこと不満に思う思いが強いあまり『 オッペンハイマー 』に否定的レッテルを張ることで終わったら、むしろ原爆投下肯定派の思うつぼと考えます。

 

ですので、切り捨てして一過性で終わり、思索や議論につながる継続性のある踏み込んだ批判に欠けた、日本側のPassiveな受け止め方を残念に思っています。

特にアカデミズムとマス・メディアに思います。 歯がゆいです。

 

思索や議論を広め、深めることが、『 オッペンハイマー 』が日本社会に与えてくれたチャンスであり、きっかけなんですから、活かしたいと個人的にも思っています。

コメントする
1 件の返信 (新着順)
趣味は洋画
2024/09/12 19:49

ロキュータスさん、
「オッペンハイマー」で述べられているご記述、まったく同感です。

特に、
>ヒバクの描写がないこと不満に思う思いが強いあまり『 オッペンハイマー 』に否定的レッテル>を張ることで終わったら、むしろ原爆投下肯定派の思うつぼと考えます。

このように、ストレートで書いていただき、個人的には実にスッキリした気持ちです。