私の好きな映画

LOQ
2025/12/19 15:17

12月20日 没後28年 伊丹十三  監督になるまで

以前のコラム(  伊丹十三・生誕90年  映画は家族  ④  最初の妻  )にも書きましたが、伊丹十三が俳優になったのは1960年1月  27歳。 大映に入社。

 

 ぼくの一番古い記憶を思い起こすと、NHKの歌番組で何かちょっとキザな感じの若い男が司会をしているが、アナウンサーでもなくシロウトぽく、何か段取りを間違えて、同じく司会を務めていた倍賞千恵子にフォローされるという冴えないものでした。

  その後出演作や著作でそのマルチな才能に触れてファンとなり、また『 無法松の一生 』( 坂東妻三郎版 )の脚本の伊丹万作の子であることを知りました。

当時の芸名は以前のコラム(  伊丹十三・生誕90年  映画は家族  ④  最初の妻  )にも書きましたが、伊丹十三が俳優になったのは1960年1月  27歳。 大映に入社。

 

 ぼくの一番古い記憶を思い起こすと、NHKの歌番組で何かちょっとキザな感じの若い男が司会をしているが、アナウンサーでもなくシロウトぽく、何か段取りを間違えて、同じく司会を務めていた倍賞千恵子にフォローされるという冴えないものでした。

  その後出演作や著作でそのマルチな才能に触れてファンとなり、また『 無法松の一生 』( 坂東妻三郎版 )の脚本の伊丹万作の子であることを知りました。

当時の芸名は伊丹一三。 姓の「 伊丹 」は父にちなんで、名の「 一三 」は阪急電車・東宝・宝塚歌劇の創業者・小林一三にちなんで、大映のドン永田雅一が命名。

 

1967年4月芸名を「 伊丹十三 」と改名。

「 マイナスをプラスに変える 」と言うのがご本人の説明ですが、ぼくは全面的には真に受けられないでいます。  

 

重いほうの受け止めを書くと、なぜ13というキリスト教の欧米で不吉な数字を名前にするのか。  私生活の通称「 岳彦 」でいいのに。

伊丹十三は「 メメント・モリの映画作家 」と言え、デビュー作『 お葬式 』を始め『 大病人 』だけでなく「 死 」の描写が印象的。

また自作に出演してきた物故者、たとえば香川良介、藤原釜足、大友柳太朗らを偲ぶ会を開いたりしたこともある。 思い至ったのは、父・万作が亡くなったのは彼が13歳の時。

「 反抗期を迎える前にその相手がいなくなってしまった 」とはご本人の弁だが、監督デビューが51歳と遅咲きだったのも、彼が意識した父の存在の大きさ、立ちはだかるハードルの高さを感じます。

 

軽い方の受け止めを書くと、「 伊丹 」「 十三( じゅうそう )」はどちらも小林一三の阪急電車の駅名でありちょっとしたシャレなのかな、宮本信子が映画『 阪急電車 』に出演したのもその流れからかな。  知らんけど。

 

ちなみに改名直前公開の『 日本春歌考 』(1967年 監督 大島渚 )でのちの再婚相手・宮本信子と共演してます。

 

テレビドラマ「 あしたの家族 」での共演からの交際中でしたが、映画での共演はおそらくこの作品だけではないでしょうか。

受験で上京する女子高生と、事故とも未必的自殺ともとれるように亡くなる引率の高校教師の役。    

 

伊丹十三は映画監督になる前、雑誌の編集人をしていた時期がある。

1981年7月から12月まで、発行元は朝日出版( 朝日新聞とは関係はない。 宮沢りえ「 Santa Fe 」を出した出版社 )

月刊誌「 Mon Oncle ボクのおじさん 」

ジャック・タチ『 ぼくの伯父さん 』(1958年)を思わせますね。

親でも他人でもないナナメの関係。

センセイでもおっさんでもない尊敬でも侮蔑でもない距離感。

老いてもいないし、若くもない。 どちらとも世代ギャップを意識した中年を自負している感じ。

当時は雑誌文化全盛期で「 話の特集 」「 面白半分 」らと同様。言論文芸カルチャー雑誌。

主な執筆者の一人は岸田秀。  共著もある彼や福島章らとともに、男性恐怖の女性などを題材に、心理学を語る。

 

当時は師事していた蓮実重彦の映画論。  映画は内容で観るものじゃない。

第1回は「 黒澤明 あるいは旗への偏愛 」   山田洋次との比較などしている。

 

他に寺山修司、山口昌男、玉村豊男、赤瀬川原平、南伸坊ら多彩な執筆者のユニークな雑誌

たとえば第4号はまるまる「 パリ人肉事件 」特集。

当人にインタビューした記者の手記、フランスと日本のメディアの報じ方、「 私はこう考える 」山本七平、大岡昇平、加賀乙彦、澁澤龍彦、福島章、山口昌男 

6回で廃刊となったが、彼の広い人脈と多才ぶりを表していました。。 姓の「 伊丹 」は父にちなんで、名の「 一三 」は阪急電車・東宝・宝塚歌劇の創業者・小林一三にちなんで、大映のドン永田雅一が命名。

 

1967年4月芸名を「 伊丹十三 」と改名。

「 マイナスをプラスに変える 」と言うのがご本人の説明ですが、ぼくは全面的には真に受けられないでいます。  

 

重いほうの受け止めを書くと、なぜ13というキリスト教の欧米で不吉な数字を名前にするのか。  私生活の通称「 岳彦 」でいいのに。

伊丹十三は「 メメント・モリの映画作家 」と言え、デビュー作『 お葬式 』を始め『 大病人 』だけでなく「 死 」の描写が印象的。

また自作に出演してきた物故者、たとえば香川良介、藤原釜足、大友柳太朗らを偲ぶ会を開いたりしたこともある。 思い至ったのは、父・万作が亡くなったのは彼が13歳の時。

「 反抗期を迎える前にその相手がいなくなってしまった 」とはご本人の弁だが、監督デビューが51歳と遅咲きだったのも、彼が意識した父の存在の大きさ、立ちはだかるハードルの高さを感じます。

 

軽い方の受け止めを書くと、「 伊丹 」「 十三( じゅうそう )」はどちらも小林一三の阪急電車の駅名でありちょっとしたシャレなのかな、宮本信子が映画『 阪急電車 』に出演したのもその流れからかな。  知らんけど。

 

ちなみに改名直前公開の『 日本春歌考 』(1967年 監督 大島渚 )でのちの再婚相手・宮本信子と共演してます。

 

テレビドラマ「 あしたの家族 」での共演からの交際中でしたが、映画での共演はおそらくこの作品だけではないでしょうか。

受験で上京する女子高生と、事故とも未必的自殺ともとれるように亡くなる引率の高校教師の役。    

 

伊丹十三は映画監督になる前、雑誌の編集人をしていた時期がある。

1981年7月から12月まで、発行元は朝日出版( 朝日新聞とは関係はない。 宮沢りえ「 Santa Fe 」を出した出版社 )

月刊誌「 Mon Oncle ボクのおじさん 」

ジャック・タチ『 ぼくの伯父さん 』(1958年)を思わせますね。

親でも他人でもないナナメの関係。

センセイでもおっさんでもない尊敬でも侮蔑でもない距離感。

老いてもいないし、若くもない。 どちらとも世代ギャップを意識した中年を自負している感じ。

当時は雑誌文化全盛期で「 話の特集 」「 面白半分 」らと同様。言論文芸カルチャー雑誌。

主な執筆者の一人は岸田秀。  共著もある彼や福島章らとともに、男性恐怖の女性などを題材に、心理学を語る。

 

当時は師事していた蓮実重彦の映画論。  映画は内容で観るものじゃない。

第1回は「 黒澤明 あるいは旗への偏愛 」   山田洋次との比較などしている。

 

他に寺山修司、山口昌男、玉村豊男、赤瀬川原平、南伸坊ら多彩な執筆者のユニークな雑誌

たとえば第4号はまるまる「 パリ人肉事件 」特集。

当人にインタビューした記者の手記、フランスと日本のメディアの報じ方、「 私はこう考える 」山本七平、大岡昇平、加賀乙彦、澁澤龍彦、福島章、山口昌男 

6回で廃刊となったが、彼の広い人脈と多才ぶりを表していました。

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1 件の返信 (新着順)
趣味は洋画
2025/12/19 18:45

ロキュータスさん

「阪急電車 片道15分の奇跡」は3年前に観ました。
私の日常生活に溶け込んでいる電車なので、昔からとても愛着があります。

>軽い方の受け止めを書くと、「 伊丹 」「 十三( じゅうそう ) 」はどちらも小林一三の阪急電車の駅名でありちょっとしたシャレなのかな
なるほどですね。
これはまったく気づきませんでした。
両方とも身近な駅で、しょっちゅう利用しています。