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私の好きな映画

LOQ
2023/12/11 00:26

おずおずと小津を語る  その4

小津安二郎は1903年東京生まれ、10歳で父親の故郷三重県松阪に転居。

大学受験に失敗した後、小学校の代用教員をしていた。

同市には小津安二郎松阪記念館があります。( ちなみに市川崑は近くの宇治山田出身 )

19歳叔父のコネで松竹蒲田撮影所に撮影部助手として入社。

映画青年でしたが、もっぱら外国映画ファンで、日本映画は3本しか観たことがなく幼稚と軽蔑してましたし、映画業界はまだ黎明期で世間の評価も低く。30歳代が年長でほとんどが20歳代でした。

まだサイレント映画の時代で、24歳で監督に昇格。

時代劇、ドタバタコメディ、フィルム・ノワールといろんなジャンルを手掛け、アメリカ映画を思わせる作風で、後年の作風とは全然違ったようです。(ほとんど観たことがない )

 

軍隊には2回応召しています。

1回目はすでに監督になっていた1924年11月から25年11月( 20歳から21歳)まで。

予備役招集で、中学卒で1年分食費などの負担金を納付すると2年の兵役が1年免除される制度を利用。 大正デモクラシーですねえ。

 

 2回目の時はすでにヒット作を世に出した有名監督でした。

 1937年7月盧溝橋事件で日中戦争に。 かわいがっていた後輩の山中貞雄が8月に招集され壮行会を開いて送り出したが、9月に自身応召。

 所属は毒ガス部隊。 34歳の伍長。

 1月遺骨を届ける公務の帰路、山中を任地に訪問。

 突然の再会に喜び厠から手も洗わず出てきた山中と固い握手。30分話し記念に写真を撮るのがせいいっぱいだった。

 8月山中貞雄赤痢で戦病死。 28歳。

 

 仲間の坊さんが頭を撃たれ脳みそと血が噴き出し即死。

 麻酔なしの開腹手術の患者の身体をおさえる。

 中国側が井戸に毒を入れるので、うじ虫の浮かぶ水はむしろ安全

 敵は殺す、味方の死にうろたえない戦争モードに自分の心がなるのを自覚する。

 小津は戦場で地獄を味わいました。

 1939年軍曹で除隊。 35歳。

 

 帰国後松竹に復帰。 映画は国家統制下、映画監督は昇格試験を要し、試験委員に。

 『 姿三四郎 』を欧米的な作風だと難色を示す他の委員を押して、黒澤明を監督に昇格させた

 

 1943年6月軍報道部員としてシンガポールに赴任。 インド独立運動を題材の映画を制作するが、戦況の悪化で中止。

 仕事がなくなり、テニスや読書、連歌づくりなどしながら、検閲と称して押収した大量のアメリカ映画を鑑賞。

 『 風と共に去りぬ 』『 市民ケーン 』『 怒りの葡萄 』『 ファンタジア 』などを観て敵国アメリカとの文化力の違いを痛感。

 

ファンタジア

 終戦後帰還業務の責任者となり、1946年2月帰国。

 

 監督に復帰するが2年ほどは低迷、脚本家・野田高梧とのコンビを復活し『 晩春 』で復権、以後亡くなるまでいわゆる小津調と呼ばれる独特のスタイルを確立。

 

 大船撮影所前の食堂「 月ヶ瀬 」の看板娘杉戸益子が気に入り、私設秘書とするほど親しくしていたが、彼女は佐田啓二と結婚することになり、佐田を見出した木下恵介とともに独身の大監督2人で媒酌人を務めた。

 

 夫妻とは酔った晩は泊まるほど親しくしていたが、当時5歳の長女(のちの 女優・中井貴恵 を可愛がり、に流行っていたスーダラ節のまんが風イラストを描いた絵ハガキを出している。( その絵ハガキは『 小津安二郎大全 』松浦莞二 宮本明子・著 朝日新聞出版 )所収。

 病院で最期を迎える前、見舞いに訪れた中井貴恵と小津はスーダラ節をいっしょに歌ったと言う。

 

 坂本龍一は1990年代ロンドンで武満徹と会った折『 小津安二郎は画はすばらしいのに、音楽はなんであんなに普通なんだ』「 ふたりで音楽を全部音楽を書き換えよう 」と盛り上がったそうで、それは実現しませんでしたが、それでよかったと考えを改めました。  (  「 坂本図書 」バリューブックス・パブリッシング発行 )

 才気あふれる音楽は主張しすぎて、抑制された作品のバランスを崩すから。

 

 小津の描く古く美しい世界は神話でありフィクション・虚構に過ぎず、現実は過酷で虚偽に満ち醜悪なものでしょうが、だからこそ小津は虚構である映画に美と真実を仮託したと思います。

凡庸の人の、ありふれて見える日常が続いていく。 そこに人生の美と真実を見出す。

今回をきっかけにいくつかの映画と関連本で小津の世界に触れ、ユーモアとせつなさ、その深遠さに惹かれました。

 みなさんもいかがでしょうか。

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