おずおずと小津を語る その2
小津安二郎は『 晩春 』以降、脚本家・野田高梧とのコンビでいわゆる小津調と呼ばれるスタイルを確立。
芸術性が高いが、決して理屈っぽい難解な映画ではない。
ただリテラシーを考えないと、ドラマの見どころがつかみにくいのはたしかでしょう。
黒澤明と小津安二郎と作風が対照的なのでドラマの描き方を対比してみると、
黒澤明は戦いや犯罪など非日常の事件を題材とし、人物のキャラや対立・葛藤が明快。
黒か白か。 AかBかCかわかりやすい。
ドラマが外見からしても「 動 」で、表に出ている。
ながめているだけでも、あらすじを読んでも展開がつかめる。
これを便宜的にクロサワ・タイプと呼ぶなら、男性映画、ハリウッド映画によく観られるドラマの形。
小津安二郎はセリフ回しも動きも抑制。
人生の転機もそれまでのありふれた日常と一見変わらないし、さりげなくあるいは突然訪れる。 あらすじを読んださけでは、変化に乏しく陳腐に思える。
見た目は「静」だがドラマは人物の内面で起こっている。
したがって観客は人物の表情、しぐさ、せりふなどのていねいな観察を求められる。
これを便宜的にオズ・タイプと呼ぶなら、女性映画やヨーロッパや日本などのアート系によく観られるドラマの形。
ただ小津安二郎は基本女性映画ではないですね。 おじさん映画、あるいはおじいさん映画で、すでに折り返した人生への諦観・
彼らから見た妻、娘、嫁へのせつない思いを描いてます。
例えば、仮に黒澤明、溝口健二、木下恵介、市川崑といった監督の作品群からいくつかのシーンを選んでモンタージュすると想像すると、
作品を観た人にはどの作品のシーンなのかはおそらくわかるし、観てない人に1シーンだけ見せてもそれが見せ場とわかり興味を掻き立てる。
だが小津安二郎は、タイトル、設定、役名が似ていて、出演者が共通な作品が多い。
僕はおそらく混同して、どの作品のシーンか迷うでしょう。
『 東京物語 』を乱暴に要約すると、エンディングで周吉( 笠智衆 )の心にポッカリ開いた大きな穴を見せる作品。
作品を観てない人に、そのシーンだけ切り取って見せても穴は見えないのです。
その3に続く>>