『オッペンハイマー』に登場するキーパーソンたち 予習篇 その1
シリーズ 『 オッペンハイマー 』の日本公開を待ちながら その7
『 オッペンハイマー 』がいよいよ3月29日から公開されます。
映画を観るにあたって、予備知識なしに白紙でみるか、予習して大筋を理解して臨むか。
ポリシーが決まってる人もいるでしょうし、また作品によりアプローチを変える考えもあるでしょう。
ぼくは後者です、
本作は上映時間3時間で、クリストファー・ノーラン作品の特徴として時系列の構成が複雑( 本作は4つの時間軸が交差するらしい )であり、また50人を越す登場人物やシーンの時期などの字幕表記もなければ、ナレーションもなく親切とはいいがたい作品。
おそらく彼の過去作や『 シン・ゴジラ 』のように、ものすごく情報量に圧倒され、あとからリピートして考えないとよくわからない作品なのでしょう。
かの町山智浩さんでさえ1度目は全然わからず、原作を読んで復習してやっとわかった。
( そして今現在6回観ている )そうですので、僕も最低2回は観ることを前提として、原作「 オッペンハイマー 」等を基に、作品の登場人物について予習しました。
投稿時現在、未見です。
自分ではこれでも配慮しているつもりですが、それでも基本余計なことではありますので、その点を踏まえてお読みください。
ロバート・オッペンハイマー ( 1904~67 ) [ 演じるのはキリアン・マーフィ ]
「 原爆の父 」とか「 天才科学者 」とか言われる人物。
たしかにそうには違いないが、そうしたラベリング、偶像化を排して、本作はその人間像に迫るアプローチと思われます。
『 ラストエンペラー 』が溥儀[ ジョン・ローン ]をそう描いたように。
そしてオッペンハイマー個人の視点を通しながら、同時にマクロな視点で彼が生きた時代を描いていると思われます。
彼は、ユダヤ人であり、科学者であり、周囲に共産主義者が多くいて彼自身もシンパシーを抱いていました。
これらに共通するのは、20世紀初頭においては、いずれにも国境を越え国家や民族を超えた世界を理想とし、志向していたことにあります。
その点を踏まえて、オッペンハイマーの人生に関わる4人のキーパースンについて、まず考えていきたいと思います。
● オッペンハイマーと深く関わる二人の女性。
一人目は ジーン・タトロック < 投稿時点でウィキペディア日本語版に記載なし >
[ 演じるのは フローレンス・ビュー ]
1914年生まれで、オッペンハイマーの10歳年下。
父親はチョーサーを専門とする英語学者で、ハーバート大学、カリフォルニア大学バークレー校の大学教授を歴任。
彼女はヴァッサー大学( 英文学専攻 )を卒業後、当時はフロイトやユングが存命でまだ黎明期だった精神医学を学ぶためスタンフォード大学メディカルスクールに進学。
1936年春、22歳で一回生だった彼女は、下宿の家主の女性( 共産党員だった )が主催のパーティで、当時カリフォルニア大学バークレー校教授だったオッペンハイマーと出会う。
少女のころからの反ファシズム・反ナチの強い感情から共産党員となり、スペイン内戦では人民戦線側に強いシンパシーを抱いていました。
オッペンハイマーが生まれて初めて大統領選挙に投票したのは1936年のフランクリン・ローズベルトの2期目。
この時期彼の政治的関心が強くなったのは情熱的な彼女の影響が大きいと原作は示唆しています。
彼女からスペイン難民救済運動の議長( スタンフォード大学教授。 同校で医学を学ぶよう勧めた恩師でもある )を紹介されたオッペンハイマーは以後たびたびカンパしている。 弟のフランク[ ディラン・アーノルド ]やその妻[ エマ・デュモン ]をはじめ周囲には共産党の関係者がいて、教員組合や亡命ユダヤ人の支援などに取り組むようになっていった。
ジーンとは親密に交際し、オッペンハイマーは2度プロポーズして断られてもステディな関係と考えていたが、1939年中に彼女のほうから結婚を前提の交際は解消される。
彼女は卒業後、1941年~42年頃ワシントンの病院の精神科で研修医となりますが、オッペンハイマーとは会い続けていました。
二人目は、キャサリン( キティ )オッペンハイマー( 旧姓 ピューニング/ハリソン ) ( 1910~72 ) ジーン・タトロックと別れた後に結婚。
< 投稿時点でウィキペディア日本語版に記載なし >
[ 演じるのはエミリー・ブラント ]
両親ともにドイツ出身で、父親は鉄鋼会社のエンジニアだったが彼女が2歳の時アメリカに移住。 母親は名家の出でヴィクトリア女王の遠縁にあたる説があると原作はしているが、ウィキペディアは事実ではないと記述。
母親のいとこで、若い時にいいなづけだったウィルヘルム・カイテルは、ヒトラー側近の陸軍元帥となり、1946年ニュールンベルベルグ裁判で戦犯として裁かれ絞首刑。
裕福な家庭で育ったキティはピッツバーグ大学に入学するが、すぐにヨーロッパに渡り、ソルボンヌ大学などで学ぶも、大半はパリのカフェに入り浸って遊んでいた。
そこで知り合ったアメリカ人音楽家と結婚するが、夫の日記を見て麻薬中毒で同性愛者だと知り、婚姻無効を訴えて離別。 ( ウィキペディアによると中絶も )
その直後彼女はジョー・ダレーという3歳年上の青年と出会う。
彼はドイツ系ユダヤ人の絹取引商の家に生まれたが、ロシア革命に感化されて13歳でユダヤ教の成人式を拒絶、ダートマス大学に進学するも2年足らずで中退。
保険会社に勤めるが、1927年サッコとバンゼッティの処刑に憤激して退社。
港湾労働者や炭鉱夫として働ぎながら左翼運動に没入。 1929年共産党入党。
フランス語が話せ、クラシック・ピアノを弾きこなし、弁が立ち、知的でワイルドなワルである左翼青年のジョーは、いままで知らなかったタイプの男にキティは強く惹かれた。
すぐに同棲が始まり、キティも彼の内縁の妻ということで共産党入党を認められる。
しかし荒れ果てた下宿に住む極貧生活と、彼女の政治認識を中産階級的とたびたび説教する夫に嫌気がさして、キティはロンドンで会社経営する両親のもとに帰る。
数か月翻訳の仕事をして過ごすが、ジョーとよりを戻したいと考えていたところに母親が彼からの手紙をずっと隠していたことを知る。
ジョーがスペイン内戦に国際旅団の義勇兵として志願したと知り、彼らの乗る船をシェルブールで出迎えた。
家から持ち出した金で、夫とその友人との3人でパリに向かい、しばしホテル暮らしとフランス料理の食べ歩きを堪能。
しかし党がスペインへの妻帯を許可せず、またキティは卵巣の病気となり手術・療養しているうち、1937年10月ジョーは30歳で戦死。
傷心のキティはアメリカに戻り、ペンシルバニア大学に入学・植物学を学ぶ。
オックスフォード大学出身の研修医リチャード・スチュアート・ハリソンと知り合い、1938年10月結婚。
のちの彼女の述懐によると、しかしすぐに愛情が醒め、結婚が失敗と認め合ったが、離婚は若い医師にとって命取りと言う夫とは、安定した結婚を装うことに合意したらしい。
共産党も脱退。
キティはUCLAの大学院で学び始めるが、1939年8月夫妻はあるパーティに出席しロバート・オッペンハイマーと出会う。 そのとき彼女は人妻でした。
予習篇 その2へつづく・・・