伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ③ 愛媛・松山での出会い
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ② 父・万作亡き後 から つづく
1950年、伊丹少年は松山へ、母や妹と再会・同居。
愛媛県立松山東高等学校( 「 父も通い、正岡子規、夏目漱石(「 坊ちゃん 」)ゆかりの旧制・松山中学の後身 」に編入。
1学年遅れの編入で年長だし、クラスの集合写真でも一人だけ学帽・詰襟の学生服でなく、米軍の放出品を黒く染めたズボンを穿き、髪形も違って大人びていて、明らかに浮いて見える。 (笑)
原書を読む英語力なので、他の生徒からは一目置かれるが、教師はやりにくかったでしょう。 (笑)
自宅には父・万作が遺した書籍とクラシックを中心としたレコードが大量にあって、芸術・教養に好奇心を持つ友人たちと親交を結んだ。
そのうちの一人が、いじめが原因で転校してきた1歳年下の大江健三郎。
数学少年だったので、伊丹さんと知り合わなければ文学の道に進まなかった、と「 100年インタビュー 」(NHK)で証言。
親友となり、その後妹・ゆかりさんと大江さんは結婚したが、それぞれの留年と転校がなかったら、出会いはなかった。
父・万作も親友の妹と結婚しているので、これも不思議なめぐりあわせと思います。
1995年伊丹さんは前年ノーベル文学賞受賞した大江健三郎原作の『 静かな生活 』を撮っている。
母の生前、二人で愛媛・松山へ旅行しました。
道後温泉や坂の上の雲ミュージアムなどにも行きましたが、母も僕も伊丹さんのファンなので、2日目のお目当ては伊丹十三記念館。
建築家・中村好文氏設計によるおしゃれな黒塗りの建物。
表のガレージには伊丹さんの愛車ベントレー・コンチネンタルが。
中の喫茶「 タンポポ 」でコーヒーをいただきました。
そして、記念館のとなりには一六本舗の社屋( 用地は同社のもの )が見えます。(笑)
伊丹プロダクション会長・ITM伊丹記念財団の玉置泰さん。
電通を退職して家業の一六本舗の宣伝担当をしていた若き日の玉置さんは、伊丹さんのCM起用を考えた。
伊丹万作の33回忌を手伝って知己を得、松山弁を使った伊丹さん制作のCMが大評判となったのが縁で、『 お葬式 』にスポンサーとして出資、共同プロヂューサーを務めて、以来長いつながりとなる。
一六タルトを食べる時は、そのCMをまねて、いちびって「 もんたかや( 帰ったのか?)
まあ一六タルトでもおあがりや 」と言いながら食べることがあります。 (笑)
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ④ 最初の妻 へつづく