伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ② 父・万作亡き後
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ① 父・伊丹万作の存在 から つづく
少年期の伊丹さんを見ると、せんだんは双葉より芳しで、手塚治虫、水木しげる、横尾忠則といった方々と同様、小学校低学年でその画力がすごく、観察力、デッサン力が大人顔負け。
次に転校が多い。
京都生まれだが、父の転勤で東京の小学校に入学するも、父が東宝東京撮影所を辞めて7歳の時に京都に戻り、京都師範(現・京都教育大学)附属国民学校の英才教育クラス、さらに1944年11歳の時には同校の特別科学教育学級に編入された。
特別科学教育学級は衆議院議員の永井柳太郎( ドナルド・キーンの盟友で、のち民間から文部大臣に起用された永井道雄 の父 )の提唱により創設された。
京都では湯川秀樹らが関係し、理数系を中心に戦時中も英語を教えるなど高度な英才教育を行っていました。
伊丹さんの、観察し、実際自分で実行してやってみる知的アプローチは、この教育で育まれた。
戦後、父・万作亡き後、同クラスも終了。 中学は京都市内で3度変わる。
1949年4月 16歳 新制・京都府立山城高校に入学。
頻繁な転校、いじめはなかったのだろうか。
母と妹は先に松山へ転居。 京都で学業を続ける伊丹さんと同居して飯炊係となったのが野上照代さん。
野上さんは『 赤西蠣太 』を観て、ファンレターを書いたことがきっかけで、今で言う推しとなり、伊丹家と親交があった。
伊丹家は二室からなる狭い家で、一室は四畳半ほどの生活スペース。一室は潜水艦と呼ばれた本に囲まれた狭い書庫。 大映京都撮影所のスクリプター見習いをしながら、野上さんはその狭い書庫に寝泊まりし、七輪で食事を作るなど伊丹少年の世話をした。
1950年、伊丹少年は松山へ。
同年野上さんは大映京都撮影所のスクリプターとして『 羅生門 』に参加、黒澤明と出会う。
翌年東宝に移り、『 生きる 』以降、黒澤明の19作に記録、編集、制作などスタッフとして参加、その懐刀となった。
黒澤明の死後も、『 雨あがる 』『 阿弥陀堂だより 』などに協力。
伊丹さん編集の雑誌「 モノンクル 」創刊号でも、伊丹さん、蓮實重彦氏と鼎談で黒澤映画論を語っているが、黒澤明と出会う前から伊丹さんとは縁があったんですね。
なお、野上さんは『 大病人 』のテレビ版メイキング・ビデオも演出しているそうです。
参考:DVD「 13の顔を持つ男~伊丹十三の肖像 」( 伊丹プロ / テレビマンユニオン )
伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ③ 愛媛・松山での出会い へ つづく