伊丹十三・生誕90年 映画は家族 ① 父・伊丹万作の存在
伊丹十三 1933年5月15日 京都生まれ。
5月15日というと、京都は葵祭ですが、この日に生まれたんですね。
今年生誕90年にあたります。
父親は伊丹万作( 1900~46 )
監督作に『 国士無双 』『 赤西蠣太 』などがありますし、脚本作品に『 手をつなぐ子等 』(万作の死後・稲垣浩監督で映画化 )、『 無法松の一生 』(稲垣浩監督で43年阪東妻三郎58年
・主演で映画化。特に阪妻版は名作の呼び声が高い)、などがある。
伊丹万作は愛媛県松山市生まれ。 旧制松山中学時代で同人誌をつくるなど親友だったのが伊藤大輔。
万作は画家になりたかったが、食べていくのは無理だと反対する両親と樺太へ渡るも、父は事業に失敗。 東京の鉄道院に勤める叔父のつてで、働きながら独学で洋画の勉強をしていた。
しかし叔父に画家で食べていくのは無理だとと意見されブチ切れ、家を出る。
上京して小山内薫に師事していた演劇青年の伊藤大輔と同居生活しながら、万作は挿絵画家で糊口をしのぎ、伊藤大輔は松竹蒲田で助監督になるものの、思い描く芸術生活を遠く感じる青春の日々。
観る映画はもっぱら外国映画で、日本映画には飽き足らず、鬱屈した思いを交互にバイオリンを弾いて慰めていた( 伊丹十三もバイオリンやギター楽器演奏を趣味としている。ちなみにクラシック・ギタリスト荘村清志氏は十三のいとこ )
この時期、兵役などでしばしば画業が中断挫折し生活に困ると松山に戻り、立て直してはしばらくしてまた上京するという生活を繰り返した。
何度目かの松山帰郷の際友人と3人でおでん屋を開業。
だが商売は失敗、一年ほどして負債を抱えて閉店
この時期親友の妹キミと親密になり結婚を考えるが、相手の親に猛反対される。
そうしていると、画の一枚が岸田劉生の目に留まり評価され、別の画も美術展に入選。
今度こそ画業で身を立てるチャンスと東京行の列車に乗った。
途中、親友の伊藤大輔はどうしているかと、京都で下車し再会すると、伊藤は日活京都の新人監督として活躍。 おもしろそうだ、と上京はキャンセル( 画家の道も断念 ),その日から伊藤大輔の食客となり、27歳遅咲きの映画業界入り。
伊藤の勧めで脚本を書くようになり、同じく伊藤の食客だった俳優の香川良介と親しくなり、彼の台湾巡業に同行、俳優として出演。
『 お葬式 』に香川良介は老人会長役で出演しているが、万作が監督になる前からの、父子二代にわたる縁だったのですね。
台湾から帰国。伊藤大輔の推薦で、28年5月片岡千恵蔵プロ設立に助監督兼脚本家として参加。
俳優も裏方の雑用もなんでもやった。
同プロの第1回作品『 天下太平記 』(稲垣浩・監督)の原作・脚本。
入社4か月目、片岡千恵蔵に無断でスタッフを集め『 仇討流転 』を撮影。
処罰されることなく、それが通り、監督デビュー。
1930年かねて交際の野田キミと結婚。
長男・池内義弘(万作は父親が決めた戸籍上の名が気に入らず、自分が付けた通称 岳彦 で呼んだ)、のちの伊丹十三誕生。
1938年レ・ミゼラブルを翻案した『 巨人伝 』(主演・大河内傳次郎)を監督した後、肺結核を患い、療養しながら脚本執筆を続けた。
戦時中、同じく結核療養の身だった橋本忍は万作に手紙を出したところ、返事がきて指導を受け励まされた。 のちに『 羅生門 』でデビューし黒澤明組の脚本チームの一人となり『 砂の器 』『 八甲田山 』など多くの代表作を持つシナリオライターになった。
万作はエッセイなど執筆も多く、だまされた者の責任を問う「 戦争責任者の問題 」は有名。 1961年刊行の「 伊丹万作全集 」(全3巻)のレタリング・デザインは俳優になる前に商業デザイナーだった息子・伊丹十三
1946年9月21日。妻子と親友・伊藤大輔に看取られて、万作・逝去。 享年46歳。
長男・池内義弘少年は13歳でした。
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投稿を表示伊丹万作、伊丹十三、親子といえば私の高校の先輩ですので、コラム興味深く読ませていただきました。
伊丹万作がわずか46歳で亡くなったということは知りませんでした。(映画好きで高校の先輩ということを考えると大変申し訳ないことですが)その後、息子が俳優、監督として大成するということも知らないまま旅立ったことは残念だったと思います。
②以降も追って読ませていただきます。それから、高校の先輩で映画関係者としては大友柳太朗、露口茂がおられることを在校時に聞いたことがありますが、さっき調べてみたら伊藤大輔、森一生、山本薩夫などの方々も先輩だったことが分かりました。スゴイですねぇ。