石橋正次の出演映画
石橋正次の出演映画石橋正次は48年生まれ。本名は字面は同じだが「マサツグ」と読む。小学生の時、児童劇団に入団。親に無理矢理入れさせられたのだという。舞台専門だったのか映画やテレビなどの出演記録はない。そのうち舞台俳優を目指すようになり、高校卒業後に新国劇に入団した。新国劇は日本史の教科書にも出てくるような劇団だが、剣
沖雅也の出演映画(日活以降)
沖雅也の出演映画(日活以降)日活を離れた後の沖雅也についても少々追ってみたい。「八月の濡れた砂」(71年)の主演を怪我で逃した沖だったが、テレビの方では「さぼてんとマシュマロ」(71~72年)で吉沢京子と共に主演となっている。ちなみに本作では芸名の字面だけでなく顔もよく似ていた仲雅美と兄弟役を演じていた。また「キイハンター」(
沖雅也の出演映画(日活時代)その3
沖雅也の出演映画(日活時代)その3今回も沖雅也の日活時代の出演作品を。71年なので、日活が一般映画の製作を休止して、日活ロマンポルノに移行することになる年である。配給も大映と統合し、ダイニチ映配となっている頃だ。 「男の世界」(71年)は、日活と石原プロの製作で石原裕次郎にとって最後の日活出演となった作品である。沖雅也が日活時代に裕
沖雅也の出演映画(日活時代)その2
沖雅也の出演映画(日活時代)その2引き続き沖雅也の日活時代の出演作品を追ってみたい。70年に入って、日活でも任侠映画が多くなっていたが、沖は若い組員役など役にはあまり恵まれていなかった。クレジット順も10番手前後であることも多い状況であった。「やくざの横顔」「斬り込み」(70年)は、いずれも主演は渡哲也。前者で沖の役柄は丘みつ子の弟
沖雅也の出演映画(日活時代)
沖雅也の出演映画(日活時代)唐突だが沖雅也である。沖雅也は52年大分生まれで、本名というか出生名を楠城児(後に日景城児)といい、逆に芸名っぽい。元々は裕福だったが、父の事業失敗や両親の離婚などもあり、中学卒業前に家出して上京。年齢を偽り住み込み等で働き、68年スナックでバーテンダーをしていた時にオスカープロにスカウトされる。日
コント55号の映画(松竹版)その2
コント55号の映画(松竹版)その2 前回の続きである。松竹6作目が「コント55号とミーコの絶体絶命」(70年)。ミーコとは由美かおるのこと。水前寺清子のチータ程には浸透してないような気がする。他の出演者は大地喜和子、倍賞美津子、財津一郎、田中邦衛、小松政夫、和田アキ子など。作詞家のなかにし礼やプロボクサーの西城正三なども顔を見せてい
コント55号の映画(松竹版)
コント55号の映画(松竹版)レンタルはコチラコント55号は、東宝と並行して松竹でも映画が撮られている。その1作目が68年末に公開された「コント55号と水前寺清子の神様の恋人」である。何故、水前寺清子とセットなのかというと当時「チータ55号」という55号と水前寺(チータ)によるバラエティが放送されていたからだろうか。ちなみに、こ
コント55号の映画(東宝版)
コント55号の映画(東宝版)60~70年代にかけて、ドリフのライバルと言われていたのがコント55号であった。66年に浅草フランス座で出会った萩本欽一と坂上二郎が、松竹演芸場でコンビを組んでコントを披露したところ、評判となり、その時の支配人から「コント55号」と名付けられた。当時、王貞治が記録した年間本塁打記録55号に肖ったもの
傍系クレージー映画
傍系クレージー映画東宝クレージー映画は62~71年に製作されているが、その時代にメンバーの主演で東宝で製作されながらクレージー映画に含まれない作品が数本存在する。「空想天国」(68年)「奇々怪々俺は誰だ?!」(69年)「喜劇負けてたまるか!」(70年)がそれで、いずれも谷啓が主演である。谷啓が主演だから含まれないので
谷啓の「図々しい奴」
谷啓の「図々しい奴」レンタルはこちら渡辺プロ社長の渡辺晋は、クレージーキャッツのメンバーをバラ売りすることを目論み、植木等は東宝で、ハナ肇は松竹へ、谷啓は東映へ売り込むことを考えていた。東映の岡田茂は、その頃東映にも喜劇路線を導入しようと渥美清を起用したりしていたが、谷啓も面白いと考え、両者の思惑が一致し、起用が決定し